ポエジー派宣言(4)

こうして、暗と明、死と生のコントラストが描き出されたあとで、第3連、ようやく作中主体「わたし」に焦点は結ばれるのですが、それはまず、軽い換喩的な視点の相対性をともなっています。なぜなら、ふつうは人が自分の影を運んでゆくのに、ここでの「わた…

ポエジー派宣言(3)

しかし、宣言するからには、ポエジー派なるものについて、もうすこし一般的普遍的な意味づけが必要でしょう。そこで、昨年のノーベル文学賞受賞詩人トランストロンメルの詩集『悲しみのゴンドラ』(エイコ・デューク訳、思潮社)に所収の詩「4月と沈黙」を素…

ポエジー派宣言(2)

そうして私たちは、県境を越えて東京都に入り、横田基地の手前(そのさきには吉増剛造さんの生まれ育った町、福生があります)、箱根ヶ崎というところまで行って引き返しました。国道16号を今度は北上です。入間市とその北の狭山市(私がはじめて抱いた女の…

ポエジー派宣言(1)

先日、ちょっと不思議なことがありました。「詩と思想」誌が「暗黒の青春」特集を組むことになり、ついては私に、ゆかりの場所を歩きながら、私の「暗黒の青春」を語ってほしいとのオファーを受けたんですね。この私が、そんなに暗い青春を送ったようにみえ…

「詩と哲学のあいだ」プログラム(6)

「詩と哲学のあいだ」というテーマを最後に向かわせたいのは、現代詩とポストモダニズム思想の関係というあたりです。まさに私をも含むところの、1980年代から90年代にかけての現代詩の展開は、フランスを中心とするいわゆる現代思想の潮流と──それを…

「詩と哲学のあいだ」プログラム(5)

とはいえ、話を戻しますと、この詩には、とりわけそのパセティックな語調には、ニーチェの影響が色濃く反映しているといえます。正確にいえば、生田長江訳ニーチェですね。昭和4年、朔太郎は「「ニーチェの抒情詩」というエッセイを発表していますが、その…

「詩と哲学のあいだ」プログラム(4)

先走りました。じっさいの作品を読みながら、そのあたりのことをたしかめてみましょう。 漂泊者の歌日は断崖の上に登り 憂ひは陸橋の下を低く歩めり。 無限に遠き空の彼方 続ける鉄路の柵の背後に 一つの寂しき影は漂ふ。ああ汝 漂泊者! 過去より来りて未来…

「詩と哲学のあいだ」プログラム(3)

こうして、ハイデガー、シャール、ツェランという三角形が出来上がります。それは、詩と哲学をめぐるもっとも劇的で興味深い、そしてまたもっとも謎を孕んだ三角形といえるでしょう。なにしろ、20世紀西欧最大とされる哲学者と、フランス現代詩の最高峰と、2…

「詩と哲学のあいだ」プログラム(2)

さてそのハイデガーと交友があったのが、20世紀後半のフランスを代表する詩人のひとり、ルネ・シャールです。このレジスタンスの闘士が、ナチズムとの関係が取り沙汰されるドイツの哲学者となぜ友人になったのでしょう。実は私は、シャールの詩が大好きで…

「詩と哲学のあいだ」プログラム(1)

もう2年前のことになりますが、私と吉田文憲さんとの共同主宰で、「詩と哲学のあいだ」研究会というのを発足させました。以来、2ヶ月に一度のペースで会をひらき、現在にいたっています。場所は拙宅。集まる面々は若手を中心にした詩人、研究者、編集者など…

瞬間の雪

雪について書きましょう。できれば雪と詩との関係について。今年は記録的な寒冬で、雪国の生活はさぞかし大変であろうと思われます。しかし、関東平野に生まれ育った私にとっては、雪はある種の僥倖をもたらす徴でもあるかのようで、大げさにいえば降雪を機…

廃墟について

前回は廃墟のような街をゆく夢の記述で終わりましたが、じつは東日本大震災以降、ずっと廃墟について考えつづけているような気がしています。震災直後のポエジー夜話特別篇でも、そのものずばり、廃墟をテーマにした詩を書きました。以下はその散文バージョ…

夢でもよく私は街をさまよう(2)

たとえば新宿駅の地下街の奥の奥あたりでしょうか、びっしりとほとんど境目もなく連なった居酒屋のどれかで、あるいは無数の座敷をもつ巨大なひとつの居酒屋のどこかで、何かのパーティーの二次会を私の仲間たちがやっているはずなのですが、いくらさがして…

夢でもよく私は街をさまよう(1)

2005年に河出書房新社から刊行した私の長篇詩作品『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』は、そのほぼ12年前に思潮社から出した詩集『反復彷徨』以来の大がかりな都市詩篇です。『反復彷徨』は渋谷の谷から丘へ、丘から谷へ、いくつかの未知の痕跡を辿る詩…

全米朗読ツアー(その4)

前夜の感激もさめやらぬまま、早朝にアイオワシティを旅立ち、空路で、全米朗読ツアー最後の訪問地サンフランシスコへ向かいました。霧の都を訪れるのは7年ぶり2度目。前回はアメリカ文学者山内功一郎氏の紹介で、アメリカを代表する詩人のひとりマイケル・…

全米朗読ツアー(その3)

ニューヨークからシカゴに飛び、さらにそこでプロペラ機に乗り換えて、中西部の学園都市アイオワシティへ。そこが三番目の訪問地でした。6年前、アイオワ大学のIWP(国際創作プログラム)のフェロー(恭子さんもそうでした)として滞在して以来の再訪です…

全米朗読ツアー(その2)

つぎに訪れたのは、ニューヨーク。プロヴィデンスから鉄道Amtrackでの移動です。私にとってニューヨークはじつに12年ぶり、あのときはまだツインのワールドトレードセンターがそびえ立っていました。そこで、朗読の前に、その跡地、いわゆるグラウンド・ゼ…

全米朗読ツアー(その1)

このたび、私の初の英訳選詩集Spectacle & PigstyKiwao Nomuratranslated byForrest Gander & Kyoko YoshidaOmnidawn, 2011が刊行され、それを記念するアメリカ朗読ツアーがガンダー氏ならびに出版サイドのプロデュースで行われました。全米4都市を一週間で…

ついに南米の地を踏みました(その2)

詩祭二日目。数カ所の会場に分かれての、ポエトリー・リーディングがはじまりました。午前中に訪れたバレンシア郊外、カラボボ大学第二キャンパスでは、私の朗読の出番はなかったのに、日本からの客はめずらしいのか、何組もの学生たちから、一緒に写真を撮…

ついに南米の地を踏みました(その1)

ついに南米の地を踏みました。メキシコには2年前、メキシコシティの詩祭に招かれて行ったことがありますけど、それ以南は今回が初めて。目的の地はベネズエラです。そこの詩祭に招かれたというわけですが、東京羽田からパリを経由したので、気の遠くなるよう…

木の王に会う(その2)

でも、樹木に関してひとつだけ言いたいことがあります。フランスにかぎらず、ヨーロッパや北米にはオークの木がたくさん生えていますが、日本人はあれをなんで樫と訳してしまうんでしょうね。ウイスキーを寝かせるオークの樽が樫の樽になってしまうし、競馬…

木の王に会う(その1)

フランスについて、ここらですこし書いておきましょうか。なにしろ、大学は日本文学専攻でしたが、大学院はフランス文学専攻を選び、そこを出てからも、長いことフランス語の教師をしていましたから。 ところが、困ったことに、あまり語ることもありません。…

ポエジー夜話特別版(続々々々)

ひきつづき、東日本大震災に接して書いた詩です。この国は復興するでしょう。それが人間の活動、あるいは「生存」というものです。しかし、突然に「生存」を断ち切られてしまった人々の「存在」はどうなるのでしょう。詩的想像力が引き受けるしかないような…

ポエジー夜話特別版(続々々)

即興的にせよ、こんなときにどんどん詩が書けてしまうというのは異常でしょうか。でも、書きます。書くほかありません。 谷底のアポカリプス 私は歩きまわり 仕事をしなければならない 災厄がこの地を覆い ウランがめざめているのだから おののきの夜の風 無…

ポエジー夜話特別版(続々)

廃墟について くり返し 廃墟はあらわれる 私たちの悲しみ 私たちの怒り くり返し 廃墟はあらわれる 私たちの恐れ 私たちのおののき くり返し 私たちは廃墟に立つ 無音の叫びをきき 光年の雫を浴び くり返し 私たちは廃墟に立つ 記憶の森 年代記の谷 くり返し…

ポエジー夜話特別版(続)

大震災に接して茫然としたまま、ふたたび即興的に詩を書きました。 母の手 まるで空襲のあとのような 津波で破壊された町を ひとりの 美しく年老いた女性がさまよっていた テレビの取材クルーが近づくと 息子を捜しているという 息子さんのお名前は? 災害伝…

ポエジー夜話特別版

地震発生の3月11日午後2時46分以降、ショックと心痛で仕事に手が着かなくなりました。きょう14日、これではいけないと思い、パソコンに向かいました。私は詩を書くしか能がないので、詩を書きます。 2011年3月11日 私は泣いている 町が消えた 人が消えた う…

2010年の詩集から(3)

旧「洗濯船」同人たちによる詩集刊行の同時多発ぶりを書いていますが、きわめつけは城戸朱理。『世界─海』(思潮社)と『幻の母』(思潮社)と、ひとりで二冊の詩集を同時刊行してしまったのですから。城戸さんはかつて、「洗濯船」の主導的役割を果たし、な…

2010年下半期の詩集から(2)

1980年代、「洗濯船」という同人詩誌が存在しました。城戸朱理、田野倉康一、広瀬大志、高貝弘也ら、それぞれに個性的な若手の有力詩人がそこに拠りましたが、彼らにはある共通した雰囲気があって、それは、言葉で何かを伝えるというより、言葉の生起そ…

2010年下半期の詩集から(1)

特筆すべきはまず、なんといっても、大ベテラン岩成達也と粕谷栄市が、またまた大きな仕事を成し遂げたことでしょうか。岩成さんは三部作完結編ともいうべき『(いま/ここ)で』(書肆山田)によって、粕谷さんは例によって満を持したといった感じの『遠い…