「詩と哲学のあいだ」プログラム(4)

先走りました。じっさいの作品を読みながら、そのあたりのことをたしかめてみましょう。

  漂泊者の歌

日は断崖の上に登り
憂ひは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
続ける鉄路の柵の背後に
一つの寂しき影は漂ふ。

ああ汝 漂泊者!
過去より来りて未来を過ぎ
久遠の郷愁を追い行くもの。
いかなれば蹌爾として
時計の如くに憂ひ歩むぞ。
石もて蛇を殺すごとく
一つの輪廻を断絶して
意志なき寂寥を踏み切れかし。

氷島』冒頭に置かれた作品の前半2連です。「断崖に沿うて、陸橋の下を歩み行く人。そは我が永遠の姿」と「詩篇小解」にみずから詩人は記しています。そしてこのとき、詩人にはおそらく、ニーチェツァラトゥストラ』第二部冒頭の章「漂泊者」が意識されていたでしょう。
それにしてもこの詩、とくにこれまで朔太郎の詩世界を経めぐり歩いてきた読者にとって、同じ詩人の作だと思えるでしょうか。『月に吠える』のあのふるえるような感覚的言語とともにもたらされる詩的ヴィジョン、あるいは『青猫』のあの伸びやかな言葉の音楽のうちに息づく「遠い実在へのあこがれ」は、どこへ行ってしまったのでしょう。
かわりに出現しているのは、貧しいわずかなイメージを喚起するだけのおびただしい漢語たちです。「断崖」「陸橋」「鉄路」といった、それ自体ひろがりのない場所を示す言葉が出たあとに、「寂寥」「輪廻」「意志」「家郷」といった抽象語が、ろくに内容も明示されないままつづきます。作者自身の言葉を借りれば、ばらばらの「絶叫」のように。じっさい、朔太郎は、前出「『氷島』の詩語について」のなかで、「「凜烈」「断絶」「忍従」「鉄鎖」等の漢語は、それの意味の上よりも、主として言葉の音韻する響きの上で、壮烈なる意志の決断や、鬱積した感情の憂悶やを、感覚的に強く表現しようとしたのである」と述べていますから、これらの抽象語の意味内容をことさら厳密に追い求めても仕方ないでしょうけど。