ポエジー派宣言(2)

そうして私たちは、県境を越えて東京都に入り、横田基地の手前(そのさきには吉増剛造さんの生まれ育った町、福生があります)、箱根ヶ崎というところまで行って引き返しました。国道16号を今度は北上です。入間市とその北の狭山市(私がはじめて抱いた女の子、しかるのちぼろ切れのように捨てた女の子が住んでいました、わが生涯の負い目の地です)の境のあたりで左に折れ、稲荷山公園から入間基地(昔はジョンソン基地といってアメリカ軍が進駐しており、学生運動のまねごとをしていた高校生の私はここで「安保反対」「米帝打倒」のデモをしたことがあります)をかすめ、所沢方面へ、行政道路と地元の私たちが呼ぶ街道に出ました。このあたりでカフェにでも入り、じっくりインタビューを、というわけで、たまたま伊藤さんが「珈琲館」というのを街道沿いにみつけ、そこに入ることにしました。ところが、そこでびっくり。店の脇を街道と交差するように川が流れていて、橋横の河川の表示を読むと、何と不老川、トシトラズ川ではありませんか。そう、まるで、さっきこの川を話題にした私たちの語らいそれ自体が呼び寄せたというように。
以前も似たようなことがありました。ある年の夏、スイスはローザンヌ近郊の「作家の家」というところに滞在し、『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』という長篇詩作品を書き上げたのですが、それからクールダウンと称して、スペインはアンダルシア地方の首都セビリアに向かいました。フラメンコダンサーをしている妻がそこに滞在していたからです。たくさんの店が建ち並び人出も多いその中心街を歩き始めたとき、妻が「蛇通りよ」と言って、通り名Calla de sierpesの刻まれたプレートを指さしました。妻の説明によれば、メリメの『カルメン』において、ヒロインが衛兵ホセの手を逃れ走り出していったのがこの蛇通りなのだといいます。そういえば、他の通りに比べ、多少うねうねと伸びてはいます。それにしても、なんという偶然でしょう。私がスイスで書いていた「蛇」が、こんなところにひそんでいたとは。それだけではありません。ふと頭上を仰ぐと、日除けのための布が、通りの両側から隙間だらけのアーケードのように張りめぐらされていて、まさしく「街の衣」ではないか。
こうした経験を重ねると、大げさにいうなら、いまだ世界は神秘に満ちている、そう思わざるをえません。あるいは少なくとも暗合に満ちている。アンドレ・ブルトンのいわゆる客観的偶然にも似て、世界はひとつの大きな無意識であり、あるいは脳であって、私たちの働きかけ次第では、私たち自身の夢と行動とをつなぐ思いがけないシナプス結合に出くわすことにもなる……
そしてその結合をこそポエジーと呼びたい誘惑にも駆られます。ポエジー夜話もこの話題をもっていったん打ち切りにしようと思いますが、題してポエジー派宣言、と大見得を切ってしまうことにしましょう。