ポエジー派宣言(3)

しかし、宣言するからには、ポエジー派なるものについて、もうすこし一般的普遍的な意味づけが必要でしょう。そこで、昨年のノーベル文学賞受賞詩人トランストロンメルの詩集『悲しみのゴンドラ』(エイコ・デューク訳、思潮社)に所収の詩「4月と沈黙」を素材に、ポエジーの何たるかをあぶり出してみることにしましょう。
そのまえに、トランストロンメル、不思議な名前ですね。というのも、そのなかにふたつのTRがあり、頭韻のようにひびいていますし、さらに、transはラテン語起源の語形要素として「を越えて」「別の状態へ」ということですから、メタファーの原義にも通じ、まさに「メタファーの巨匠」と呼ばれるこの詩人にふさわしい。つまりあたかも名が体をあらわしているのです。
さて、その「4月と沈黙」。まず全行を引用しておきます。

春は不毛に横たわる。
ビロードの昏さを秘めた溝は
わたしの傍をうねり過ぎ
映像ひとつ見せぬ。

光あるものは ただ
黄色い花叢。


みずからの影に運ばれる私は
黒いスーツケースにおさまった
ヴァイオリンそのもの。

わたしのいいたいことが ただひとつ
手の届かぬ距離で微光を放つ
質屋に置き残された
あの 銀器さながら。

第1連、春はよろこびの季節のはずなのに、「溝」の水は「ビロードの昏さを秘め」「映像ひとつ見せぬ」と語り出されます。ただでさえ北欧の春は暗く寒々しいでしょうが、そこにおそらく、重い脳卒中に倒れた詩人の内景が重ねられているのです。第2連では、やや神秘の雰囲気とともに、「黄色い花叢」がそこだけ光のあたっている場所として浮かび上がります。