ポエジー派宣言(4)


こうして、暗と明、死と生のコントラストが描き出されたあとで、第3連、ようやく作中主体「わたし」に焦点は結ばれるのですが、それはまず、軽い換喩的な視点の相対性をともなっています。なぜなら、ふつうは人が自分の影を運んでゆくのに、ここでの「わたし」は逆転して「みずからの影に運ばれる」のですから。なお、運び運ばれるこの関係にもtransの意味が忍び込んでいるかのようです。
ときあたかも第一の隠喩が書き記され、「わたしは」「黒いケースにおさまった/ヴァイオリンそのもの」だとされます。自身を楽器にたとえるのは、詩の音楽性に長け、みずからもピアノを演奏するこの詩人ならではでしょうが、しかしそれは「黒いケース」に収まっていて、外から見られることもなければ演奏に供されることもないんですね。ここにはあきらかに柩への暗示があり、つまり第二の隠喩が書かれることなく示されています。
最終連はふたたび光のパートです。しかも、詩はここでコーダにふさわしく一挙に深さとひろがりと謎とを獲得するんですね。「わたしのいいたいこと」、それはふつうなら「わたし」の内部にあり、発話行為として外在化されるわけですが、ここでは驚くべきことに、「手の届かぬ距離で微光を放」っているというのです。第三の隠喩です。そこには、脳卒中の後遺症で言語障害を負ったという詩人の苦悩が読み取れますが、それだけではありません。「わたしのいいたいこと」は、「微光」というメタファーによって、つねにすでに「わたし」に先立って、むしろ世界の深みから──沈黙そのものとして──浮かび上がってきたかのようにあることが明かされるのです。詩人はそれを、より具体的に、かつ、ややアイロニーをこめて、質屋に置かれた「銀器」のイメージへとさらに移し変えていきます。
このように読んでくると、溝、花叢、黒いケース、柩、微光、銀器、沈黙──それら現実には異質にあるいはばらばらにしか存在しない事物や事象たちが、主体を介した微妙な明暗の移りゆきのうちに喚起されつつ、神秘で緊密な言葉のネットワークを織りなしてゆくさまがみてとれるでしょう。これがポエジーの実質です。その組織は世界を別様なあり方のほうへとずらし、あるいはそのふたつをいわばパランプセスト化して、われわれをある種の眩暈の体験へと導きます。もはや内界もなく外界もなく、生と死のへだたりもなく、あるのはただ、それらの境域から漏れ出るもうひとつのトランス、陶酔もしくは忘我を意味するtranceだけだ、というふうに。
以上、ポエジー派宣言でした。ポエジー夜話はこれをもってひとまずの大団円とします。長いあいだのご愛読、ありがとうございました。