エロ詩人たちのゲットー

これから詩について、いや詩の外のことも、つれづれなるままに書いていきますので、よろしく。詩論や詩学、批評や研究の類はもういやというほど書いて、これからも書いていくでしょうが、ここではもっとくだけて、うちとけて、ざっくばらんに、半ば日録風、半ば現場報告風に、ときにはぼくという詩人の心の奥底まで覗かせてしまおうかなあと、ストリッパーさながら思っていますので、よろしく。
ストリッパーといえば吉岡実を思い出します。ストリップ好きで有名でした。世間では大変な詩人のように思われていますけど、もちろんぼくもそれに異論はありませんが、同時にきわめて特異な──奇矯な、といってもいいかもしれません──想像力の持ち主だったことも忘れてはならないと思います。要するに変態ですね。とりわけ、窃視症です。デバガメ。実生活でどうだったかはわかりませんが、想像力の傾向としては、完全にいかれています。ただひたすらスカートの中を覗くことに捧げられた生涯で、おまんこを仰ぎ見るその視線こそが比類のないポエジーにまで高められ、肝心のおのれの下半身、おのれのちんぽこがポエジーになることはありませんでした。いいのか悪いのか、幸なのか不幸なのか、それはわかりませんけど。
言い換えると、吉岡的主体が性の主体になることはなく、いつも傍観者でした。吉岡実に恋愛詩はありません。ありえないのです。清岡卓行は、猫も杓子もほめたたえるこの詩人のことをエログロ呼ばわりして一定の留保をつけていましたけど、わかるような気がします。同じエロい詩人に、20世紀フランス詩の前半を代表するポール・エリュアールがいますが、こちらは恋愛詩ばかり書きました。純粋正統というか、マッチョというか、愛すなわち詩(というタイトルのエリュアールの作品があります)、性的結合すなわちポエジーなんですね。実に単純です。実生活では寝取られたりなんかもしましたけど。ガラ事件。エリュアールの場合えらいのは、寝取られたからといってわが中原中也のようにうじうじルサンチマンを育てたりせず(まあそれが中也詩を産む原動力にもなったのでしょうが)、きれいさっぱり、つぎの女ニッシュへと性的結合すなわちポエジーの情熱を燃やしていったということです。
えっ、ぼくですか。そういえばぼくもいまやエロい詩人のゲットーに収容されつつあるようですが、どちらかといえばエリュアール寄りです。彼ほど才能なく、彼ほどもてませんでしたけど(と過去形で書いてしまっているのが、われながら哀しい)。
とまあこんな感じで書いていきますので、よろしく。