「詩と哲学のあいだ」プログラム(5)

とはいえ、話を戻しますと、この詩には、とりわけそのパセティックな語調には、ニーチェの影響が色濃く反映しているといえます。正確にいえば、生田長江ニーチェですね。昭和4年、朔太郎は「「ニーチェの抒情詩」というエッセイを発表していますが、そのなかで、生田長江訳によるニーチェの詩「寂寥」の第一詩節「鴉等は鳴き叫び、/風を切りて町へ飛び行く。/間もなく雪も降り来らむ──/今尚お、家郷ある者は幸なるかな!」を引き、この詩人哲学者への大いなる共感を語っています。
しかし、それだけです。ニーチェの思想の核心は生の絶対的肯定としての超人であり永劫回帰であるわけですが、朔太郎はニヒリズムという側面でのみニーチェを汲むことができたような感じで、「人生は敗北なり」と悲観的に嘆息しているようでは、とてもじゃないけど超人や永劫回帰という強力な息吹には耐えられないでしょう。それよりなにより、ニーチェを突き動かす原動力となった苛烈なキリスト教批判という視点が、わが朔太郎には決定的に欠けているのです。
そんなわけで、「ニーチェを読む朔太郎」というときのニーチェは、きわめて限定されたものになるわけですが、実は朔太郎自身、さきほど引用した文章のつづきで、つぎのように書いているんですね。「だが僕の学んだ部屋は、主としてニイチェの心理学教室であった。形而上学者としてのニイチェ、倫理学者としてのニイチェ、文明批判家としてのニイチェには、ぼくとして追跡することができなかった。換言すれば、僕は権力主義者でもなく、英雄主義者でもなく、況んやツァラトストラの弟子でもない。」
どうやら朔太郎は、「力への意志」を「権力主義」と、「超人」を「英雄主義」とみなしてしまっているようですが、まあ好意的に解釈すれば、それだけニーチェを警戒して、その危険な思想にかぶれることなく思想の語り方だけを学んだと言うことになりましょうか。
ニーチェの著作はそのほとんどがアフォリズムという形式をとっていますが、つまり朔太郎は、ニーチェから主としてアフォリズムという形式を学んだということになります。考えてみれば、アフォリズムそれ自体が「詩と哲学のあいだ」なわけです。
実は朔太郎は、詩のほかにアフォリズムにも力を入れたのであって、生涯になんと4冊ものアフォリズム集を公刊しているんですね。これは驚くべきことです。最初にちょっとふれた私の『萩原朔太郎』はもっぱら詩のみを対象に、その一篇一篇について私なりの読解を試みたものなのですが、そのため、もう一方の柱であるアフォリズムにはほとんど言及していません。朔太郎の全体像というものを考えるならば、これは片手落ちでしょう。なので、来るべきライフワークでは、朔太郎のアフォリズムについても然るべくページを割くことになるでしょう。