ポップな少数者のきびしい言語

 自著に言及してもらうのは、何であれうれしいものですが、谷口慎次さんという若き学究がその論考「現代の詩の展望」(「日本現代詩研究者国際ネットワーク」所収)のなかでぼくの『現代詩作マニュアル』を引き合いに出してくれました。ありがとうございます。谷口さんの論旨は、現在書かれている詩は近現代詩のメインストリームから断ち切れたところがあり、むしろサブ=ポップカルチャーと不可分である、野村もそのことに気づいてはいるが、まだまだ認識が足りない、といったところですが、まあその通りでしょう。
 ただ、詩というのは、本質的にポップだと思うんですね。サブカルチャーとの関係云々以前に、非権威的で、非中心的で、非正統的で、ラディカルで、マイナーで、アナーキーで、秩序壊乱的で、方言的で、吃音的で、舌語り的で、というような意味において。そういう意味では中也も賢治もポップだったし、いや、近代詩のみなもと朔太郎でさえポップであったといえるでしょう。
それと、詩が言語芸術であるという点もおさえておくべきでしょうね。サブカルチャーという場合は、おもに映像表現や音楽表現をさすわけですが、言語を使う詩の場合はそれとは根本的決定的に異なっている。
 体験的事実をひとつ。ぼくは大学で詩学やレトリック論の講座をもっているんですが、学生にレトリックを実践させると、彼らがいちばん苦手とするのが隠喩なんですね。隠喩を書けといっても、擬人法か寓意になってしまう。隠喩というのが書けない。涙の雨とか鉄の意志とか、そういう陳腐な隠喩でもけっこう大変らしく、まして生きた隠喩、創造的な隠喩となると、ほとんど書けない。ところが、そういう隠喩が詩の核心にはあるんですね。ポエジーそのものといってもいい。逆に言えば、それだけ隠喩というのは一般の人にとってむずかしいものなんだなと、学生と接して、つくづくそう思いました。
 あれ、ちょっとおかしくないか、そう訝しがる人もいるかもしれません。たしかにぼくは、『討議戦後詩』その他において、隠喩そのものを批判するような批評を展開したことがあります。でもそれは戦後詩的な隠喩の詩法に対して、その一定の限界を指摘したにとどまるのであって、詩的言語の本質的な隠喩性を否定したわけではありませんでした、念のため。
 本題に戻って、隠喩とは、かんたんにいえば言葉の意味のゆらぎやずらし、言葉と言葉の関係における内的な差異の生成ということで、要するにエクリチュールの時間、ひとつの文字からべつの文字へといたるその遅れの時間が必要ということなんですね。世界原理ではなく言語原理、在るのではなく在らしめるわけだから、そうかんたんに誰でもアクセスできるというものではない。特別な才能、詩的センス、詩への愛、そういうものがないと隠喩の創成というのはむずかしい。
 というわけで、結論。ポップな少数者のきびしい言語──詩とはそういう矛盾態そのものだと思います。