移動しながら書く

 4月下旬から2週間ほど中国を旅しててしばらくブログを中断していましたが、また始めます。それにしても、帰国したらすぐに四川大地震のニュース。被害の甚大さに胸が痛みます。私が旅したのは、上海を起点に、蘇州、杭州武漢、南京といったいわゆる江南地方で、四川省までは行きませんでしたが、都市部ではどこもかしこも、経済成長が背景にあるのでしょう、超高層のオフィスビルやマンションがばんばん建っていて、この国はきっと地震の心配がないんだ、と勝手に推し量っていたその矢先でした。
 なぜ四川省まで行かなかったかというと、私の、いや私たちの(鈴村和成さんとの二人旅でした)旅の目的が、「金子光晴の足跡をたずねて」というプレテクストのもとに、共同で詩的あるいは批評的な紀行文を執筆するというものだったからです。つまり、肝心のその金子光晴が、三度中国に渡っていながら、四川省までは足を伸ばしていないんですね。この反骨流亡の詩人の足跡を追って、実はすでにマレーシア、インドネシアとまわっており、今回の中国はその三回目、最終のステージにあたっていました。
 旅をしながら、つまり移動しながら共同で書くというのは、それなりにハードです。とりわけ私たちは、エクリチュールの現場性、即時性、そして対話性ということを重視しましたから。共通のノートを携行して、どちらか一方でも感興が湧いたら、街中であろうと食事中であろうと、その場で書くという原則です。あるとき、上海で、余慶坊という煉瓦造りの路地を探し出して、わずかながらまだそんな戦前の街並みが残っているんですね、その123番地という、かつて光晴が住んでいたのと同じドアの前に座り込んで書き始めてしまいました。するとその番地の現在の住人らしき人が現れて、何をしているんだという顔で覗き込む。私たちの文章の漢字部分はわかるかもしれないと思うと、ちょっと落ち着かない気分でした。
 でもまあ、考えてみれば、移動しながら書くというのは、私の詩作の基本傾向でもあるような気がします。書斎や図書館で、いろんな書物や資料にあたりながら言語空間を構築するというようなことは、まずほとんどありません。詩のコアになるような言葉やイメージは、多くの場合移動中に、世界事物との直接的な交流交感のうちにあらわれるので、そこで詩作が始まってしまうんですね。というか、人のからだの70%は水だといわれますが、文字通りそれを地でいくように、私という主体は、いわば水の入った皮袋にほかならず、じっとしているとよどむ。どうもそういう強迫があって、だからさまよえるオランダ人の伝説のように、ただただ歩きまわるわけです。そうすると水がたぷたぷと揺れて、その音がすなわち詩ではないか。そういえば金子光晴も、徹頭徹尾、まぎれもなく水の詩人でした。