なんでもポエジー

宇宙連詩」という企画の一環として、先日、谷川俊太郎さんと対談をしました。処女詩集が『二十億光年の孤独』で、火星語なるものを発明し、いやそもそもその人となりが宇宙人とか異星人とか呼ばれてきた人と宇宙の話をするというのも、なんだか不思議な感じがしましたが、ひさしぶりにお会いした谷川さんは、相変わらずというか、年齢を感じさせない闊達な詩精神そのもので、やっぱ宇宙人だなという思いをあらたにした次第です。
 その谷川さんの詩に「なんでもおまんこ」というのがあります(『夜のミッキーマウス』所収)。万象がおまんこにみえ、そこに入り込んでひとつになりたいという、でもそれって死ぬことなんじゃないかしら、という、なんとも壮大な宇宙的エロスと死への欲動をべらんめえ調で語った快作ですが、ご自身気に入られているようです。
 さてそこで、「なんでもおまんこ」があるのなら、「なんでもポエジー」があってもいいんじゃないか。世の不思議はなんでもポエジーにみえてしまう、あるいはしてしまう。たとえばあのこんもりした木の葉のそよぎ、それは風が動かしているんだろうけど、木それ自体が自発的に葉をそよがせて何か内なる秘密をこちらへちらちら伝えているような気がするこれっていったい何、と思うときのその「何」がポエジー。たとえば友だちと話していて、だんだん話すことがなくなって、まるで自分たちが沈黙の海にぽつんと浮かんだ二つの島のように思えてきて、でも何このぽつんと二つ在ることのばかばかしいまでのやすらぎ、と思うときのその「何」がポエジー
 つまり、これは私からの提案ですが、いろんなことの局面で、それをうまく説明できなくなる瞬間がおとずれたら、とりあえずそれをポエジーと呼んでしまいませんか。いままで語り得ぬものとかラカン現実界とか名辞以前とかインファンスとか表象不可能な表象とか、なんだか小難しく言ってきたものを、なんでもポエジーに言い換えてしまう。いや、ちょっとした幸福感、言葉に詰まった感じ、それもポエジーでいい。なんでもポエジー。たとえば有名中学入試で、食塩水を凍らせた氷を紐で結んで水の入ったビーカーにつるすと氷からもやもやしたものが出てきますがその理由を説明しなさいという問題が出て、でもわが家の坊やは説明することができず、ええい、それもポエジーだ、あらゆるもやもやはポエジーだ。
 かくて世の人は、えっ? そんなにたくさんポエジーってあるの? でも私、ポエジーって何なのか知らない、どうしようどうしようとパニックを起しますが、おりしもどうやらポエジーは詩というジャンルにとくに濃く含まれているらしいという都市伝説がひろまり、世の人は今度は本屋やアマゾンに殺到、かくて私の詩集にまで重版がかかって、私はそれで得た札束を握りしめて東京競馬場に向かう・・・
 夢からさめると朝まだきでした。