詩があらゆる非詩的なものに化けて詩人を追いかけまわすホラー

とある年少の詩人と話していて、彼はどうも人妻に懸想したらしく、そういうまったく詩的でない(?)対象に打ち込むことがかえっていい精神衛生になっているというんですね。ま、白秋の轍は踏まないようにと(時代がちがうか)奮励努力を促しましたが、もうひとつのマジな精神衛生として彼が見せてくれたのは、まんぴーのGスポットみたいなタイトル(ごめんなさい、正確なタイトル失念しました)のついたパソコン事典の類の本で、いわゆるIT用語とその解説がずらりとならんでいるだけのそのページは、たしかに詩的とはいいがたい。実は彼、師範級のマックユーザーなんですけどね。
でも、ずっとみつづけているうちに、その砂を噛むような辞項のつらなりがなにやら詩の極北の姿のようにもみえてくるから、不思議というかなんというか、やはり詩人は詩から逃れられないのでしょうか。詩があらゆる非詩的なものに化けて詩人を追いかけまわすホラー。いやはやです。
私の場合、それは囲碁かもしれません。先日、今度はとある年長の詩人に誘われて「文人碁会」なるものに参加してきました。みなさん強者ぞろいで、二段の私は決勝トーナメントにさえ出られませんでしたが、優勝して文壇名人になられたのはミステリー作家の内田康夫氏でした。それはともかく、白黒の無機的な石によって構成される囲碁の世界はまさに非詩の典型みたいですけど、よくみると実に美しくもあるんですね。陣地を競うべく交互に打ちおろされてゆく石たち、しかし石たちが織りなす刻々と変化してゆく幾何模様は、これってまさにポエジーじゃん、とも思えてしまう。そのうえ、19路盤のまんなかの交点は天元と呼ばれ、へりのほうの交点のいくつかは星と呼ばれている。そう、宇宙です。そこに石を配してゆくんですから、世界創世神話の身振りにも似て、石を言葉に置き換えれば、もうまぎれもない詩です。どなたか、私と碁を打ちませんか。
そういえば、ジャック・ルーボーというフランスの詩人の詩集に、囲碁棋譜を模して詩篇を構成してゆくというコンセプトのものがあります。ルーボーはまた数学者でもあります。数学と詩、かぎりなくかけ離れているのに、どこか似ているんでしょうね、ちょうど北極と南極のように。
最後にもうひとつ、非詩の詩としてあらたに小説の執筆を挙げなければならないかもしれません。生涯一詩人をつらぬくはずの私が、なんとその禁を破って、小説を書いてしまったのです(「すばる」8月号、ただし第1部のみで、第2部は10月号掲載予定です)。しかも、人妻を犯したり、立ちバックから女を殺したりというアネクドートまで含んだエロいやつを。そのどこが非詩の詩になっているのかは、読んでくださる人の判断にゆだねます。