不幸養成ギブス(その1)

 突然ですが、来月メキシコの詩祭に招かれて、はじめてラテンアメリカの地を訪れることになりました。メキシコについては詩人オクタビオ・パスの祖国という以外ほとんど何も知りません。そこで何かメキシコ関係の面白い本はないかと探しているうちに、そうだ去年、『ギターを抱いた渡り鳥──チカーノ詩礼賛』(思潮社)という本を書評したことがあったな、と思い当たりました。
 著者はアメリカ文学者の越川芳明氏で、みずから米墨国境地帯を渡り歩きながら、差別と貧困に苦しむチカーノ(メキシコ系アメリカ人)の生と言葉の実態に、渾身のフィールドワークを試みています。未読の人にはおすすめの一冊です。
 とりわけ感動的なのは、つらい社会現実にもかかわらず、いやだからこそというべきか、チカーノたちの詩が実に生彩に富んでいるということです。刻まれてゆくのは抵抗の声のリズムなので、いきおいそれはメッセージ性の強いものとなり、ときに詩としての凝縮度に欠ける憾みも出てくるけれど、不可避的に呼び寄せられた言葉の力への信のほうが、かえって私たちにポエジーの何たるかを教えてくれるのです。
 そう、比喩的に言えば、詩とは魂の叫びでしょう。幸福な魂はあまり叫ばないでしょうから、詩は主に不幸な場所に育つということになります。
 我が身を振り返って、はたして私は不幸でありえたか。奇妙な自問と思われるかもしれませんね。しかし私は詩人なので、不幸でなければ困るのです。もし不幸でなければ、不幸養成ギブスみたいなものを自分に課さなければならない。
 もちろん幸か不幸かは量的にはかれるものではないし、多分に主観的でしょう。あるいは、個人の努力(?)ではどうにもならない場合もあるでしょう。たとえば私は学校を卒業して以来、どこかに正規に雇われたということがありません。古典マルクス主義風にいえば、ずっと不定ルンペンプロレタリアートです。不幸というほかないでしょう。しかしそれだけかえって自由だともいえるし、それなりにパートナーの援助もあるので、おそらくチカーノほどには貧困ではないでしょう。
 またたとえば私には子供がありません。べつに作ろうとしなかったわけではないのですが、なぜか恵まれませんでした。もはや絶望的な袋小路のなかで、私のなかの遺伝子が悲鳴をあげています。不幸というほかないでしょう。しかし親子関係をめぐるいまどきのさまざまなトラブルからは免れていたわけで、そういう意味では幸福であったのかもしれません。
 いやいや、この国では詩人であることそれ自体が不幸養成ギブスだ、だから安心するがよい、とそんな声もきこえてきて、なんだかややこしいことになってきました。