不幸養成ギブス(その2)

 くそ、俺ら、売れないプロの詩人、てゆーか、詩人という名の不幸養成ギブスをはめられて。
 このあいだ地下鉄に乗ったら、中吊りに、「地下鉄文学館」とかいう名の東京メトロの広告があってよ、へえー、文学か、なかなかやるじゃん、と感心するも、よくみると他愛のないシロウトさんの「詩」が掲げられていた。満員の地下鉄にもみくちゃにされそうな新入生の黄色いランドセルの群れ、だが大人たちは必死の赤い形相でそれを守り、やがてドアが開くと、その黄色が希望そのもののように車外に花咲いてゆく、てな内容で、はいはい、よく書けました、心和みますね。だから別にめくじらたてるつもりはないけどよ、ちょっと変だと思わないか。詩なら俺ら詩人に書かせろ。そのために俺らは在るんじゃないのか。
 ふと思い出したぜ、以前パリの地下鉄に乗ったときにも、似たような光景にでくわしてよ、つまり車内に掲げられた詩のポスター、でもそこに署名されてたのは、アポリネールレイモン・クノーといったれっきとした詩人の名で、大衆にとっては小難しいかもしれない彼らの詩が、「読め」と提示されているんだ。権威的? 教養主義的? まあそういえないこともないが、彼我の文化の差というものも、やや感じてしまう俺らであった。
 東京の地下鉄に戻って、目をドアの上の広告に移すと、東京都現代美術館でいま「スタジオジブリ・レイアウト展」だと。ああ、大衆文化、みんなによる、みんなのための文化。これも別に目くじらたてるつもりはないけどよ、またもふと思い出したぜ、今度は日本近代詩。
 詩人という名の不幸養成ギブス、この国において最初にそれを本格的にはめられたのは、萩原朔太郎だろうな。その『詩の原理』のなかに、「試みに日本の音楽と西洋の音楽と、日本の歌舞伎劇と西洋の古典劇とを比較してみよ。音楽でも劇でも、すべての西洋のものは上品であり、気位が高く、権威感があり、何等か心を高く引き上げ、或るエピカルな、高翔感的なものを感じさせる。之れに対して日本の音曲や演劇やは、どこか本質上に於て賤しく、平民的にくだけて居り、卑俗で親しみやすい感がする」とあって、えっ、西洋への憧れが書かせた偏見? まあそれは俺らも否定しないが、それを差し引いても、世界に冠たるアニメ大国のいまが、はるかに予見されているようではないか。
 くそ、俺ら、地下鉄に揺られ、高々と掲げられたシロウトさんの詩やスタジオジブリのレイアウトらに見下ろされて、俺ら、くそ、俺ら、こうべを垂れ、売れないプロの詩人、てゆーか、詩人という名の不幸養成ギブスをはめられて。