血の川のせせらぎ

 このあいだ共演した舞踊家伊藤キム氏のかつてのソロ作品に、小型ラジオで放送大学の講義を流しながら踊るという奇抜なものがあります。私が観たときはたまたま数学の講義で、難解な数式を読み上げている講師の声に、伊藤氏のダンスが絡むのです。おかしくて、楽しくて、やがてそこからそこはかとないポエジーが生まれてくるような、そういう作品でした。
 以来私も、車の運転をするときには放送大学を聴くようになりました。それ以前はFMを聴いたり、お気に入りのCDを流したりしていたんですけどね。もちろん、そうして聞こえてくるさまざまな講義に、伊藤氏のように身体をもって応じるというわけにはいきませんけど、だいいちそんなことをしたら事故になっちゃいますよね、ですから、まあおとなしく聴いてるわけですが、雑学の足しにはなるし、ときには思わぬ発見をすることもあります。
 先日もそうでした。科目は発達心理学か何かで、講師の先生がある音響を流したのですが、それは、胎児の耳に聞こえるであろう母親の胎内の音だというのです。どうしてそんな音が採録できるのかしら、妊婦の膣口から集音マイクでも挿入しないかぎり? ああ猥褻だ、猥褻だ、猥褻だ。
 それはともかく、そういえば清岡卓行の詩にも、「録音された胎内音を聴いたときの感動」を書いた「血」という作品があります。「あれはなんだろう?//大型の羊歯が密生する谷の/原始の闇夜を ざわざわ流れる/洪水のかたわれの/不気味な川?」と始まるのですが、全部を読みたいひとは、近刊の『清岡卓行全詩集』(思潮社)でどうぞ。
 私のカーラジオから聞こえてきたのも、低いビートでリズムが刻まれてゆくそのうえに、金属板を軽く擦り合わせたような持続音がかぶさるというふうで、前者が心臓の鼓動、後者が血管を流れる血液の音、いわば血の川のせせらぎらしいのです。ふつうの感覚ではノイズにしか聞こえないけれど、胎児には絶対的な保護の響きとして届き、何としかも、あとあとまで記憶されるとか。ちなみに清岡作品では、「生まれでるとき/胎内のふしぎな音楽は/夢のように忘れ去れられる」とありますけど、ほんとうはどうやら消えないらしいんですね。
 私は思わずブレーキを踏みそうになりました。というのも、もうずっと前から耳鳴りを自覚するようになり、耳鼻咽喉科に行ったら頭鳴りですねと言われて、頭鳴り? この頭が鳴ってるわけ? と思わず聞き返しそうになりましたが、その音がさきほどの血管のせせらぎによく似ているのです。そうか私は胎児に戻って、母の体内を流れる血の音を聴いているのも同然なんだ。なんという安らぎ。「不気味な川」なんかじゃありませんよ、清岡さん。そう考えれば、日頃の耳鳴りの不快感も、いくらか軽減されるような気がしました。われながら、つくづくマザコンですねえ。