朔太郎づいています

今年も暮れようとしています。私ごとですが、今年は長篇評論『オルフェウス的主題』を出したり、20歳代の頃の作品群を新詩集『言葉たちは芝居をつづけよ、つまり移動を、移動を』としてまとめたり、はたまた小説「まぜまぜ」(「すばる」8月号、11月号)を書いたりと、いろいろお騒がせしましたが、もうひとつ、「討議戦後詩」「討議・詩の現在」につづく城戸朱理との共同討議シリーズ三部作完結をめざすべく、「現代詩手帖」誌上で不定期連載「討議近代詩」をスタートさせました。その第一回「萩原朔太郎」は、ゲストに松浦寿輝さんを迎えて、わりと充実した討議ができたのではないかと思います。くわしくは「現代詩手帖」11月号をご覧ください。
それにつけても、最近はすっかり朔太郎づいています。『オルフェウス的主題』でもその一章をあてていますし、いまは書き下ろしの「朔太郎の生涯と作品」みたいなものに取り組んでいます。一般向けですけど、いまの時代に即した新解釈もできれば打ち出したいですね。それから、来年5月には、朔太郎研究会から声がかかり、前橋文学館で講演することになっています。
むかしは朔太郎なんて関心の外の外でした。遠い近代詩の祖、ぐらいの認識で、自分のやっていることはそれとは完全に切れているという、まあ傲慢に近い思い込みがありました。ところが、じっさいに腰を据えて読んでみると、なかなかどうして、面白い。こちらに近い。自分がこれまでいろいろやってきたこと考えてきたことは、90年もまえにすでに朔太郎によってあらかた試みられている。そういう感想がありました。なんだ、少しも進歩していないな、現代詩は。詩人は進歩しない、変化するだけだ、という意味のことをどこかで朔太郎は書いていますけど、詩人だけじゃない、詩の歴史もそうなんですね、変化があるだけ、揺れがあるだけ。
朔太郎において、シュルレアリスムもあれば、言語実験もある。主体なんかとっくの昔に分裂しているし、共同体言語へのダブルバインド的かかわりなんかも立派なもんです。ただ、言葉がちょっと古いだけ。詩はそれでもいいけど、詩論だと、たとえば「郷愁」とか「イデア」とかは、「語り得ないもの」「表象の不可能性」あたりに直す必要があるでしょうね。そうすれば充分いまでも通用します。なかんずく朔太郎のリズム論、これは用語を変える必要もなく、われわれがそれを批判的に乗り越えることはいまなお困難であるような気がします。
最後に、私がえらぶ朔太郎詩ベストワン。やっぱ「愛隣」かなあ、あのめずらしく健康的なエロティシズム。それとも「大砲を撃つ」か。いまの私の気分にもぴったりなので、ちょっと引用しておきましょうね。「わたしはびらびらした外套をきて/草むらの中から大砲をひきだしてゐる。/(中略)妄想のはらわたに火薬をつめこみ/さびしい野原に古ぼけた大砲をひきずりだして/どおぼん どおぼんとうつてゐようよ」。