私の連詩修業(その2)

前回は私が連詩にハマるにいたった経緯を紹介し、あわせて宇宙連詩への招待をも試みましたが、今回は連詩の実際について少し考察してみようかと。
連詩の最大の勘所は、いうまでもなく、詩から詩への連続不連続の妙、いわゆる「付け合い」にあります。前の詩の語を露骨に直接受けてみようか、あるいはもっとも高級とされる「匂い付け」に挑戦してみようか、などと考えるだけでも楽しい。他者の詩句を自分の言語感覚とイマジネーションのなかにくぐらせたのち、数行の言葉の小宇宙にしてまた他者に送り出す、そのリレーはなんともスリリングで、しかも調和的で、卯年で天秤座という私の性分にも合っていたのだろうと思ってみたりもするんですね。もっと言ってしまえば、他者の詩句に、からっぽの待機状態からすみやかに反応しようとすると、もちろんプレッシャーはかかるけれど、同時に、不思議に自己がひらかれ、自分ひとりでは思いもよらなかったような言葉やイメージが飛び出してくる。一度その快感を味わってしまうと、もういけない、連詩から抜けられなくなるのです。
もちろん、悦びの前には苦しみも用意されていました。まず、座というものの独特の雰囲気があって、密室内でのふだんの詩作とはだいぶ勝手がちがう。大岡さんの著作のタイトルを借りていえば、「うたげ」と「孤心」のバランスですね。また、そこでの主人公はあくまでも進行中の連詩作品であって、その不断の流れをつくり出すためには、後ろをあまり振り返りすぎてはいけないし、かといってひとりよがりな発語に酔っていると、たちまち流れを損ねてしまう。そのへんの個性の出し具合がむずかしいわけです。
以下、えらそうな結論です。つまり連詩というのはひとつの生命体であり、「往きて還らぬ」その不可逆性と、千変万化にさらされた言葉の運動の非予見性とを最大の特徴とする。各人はそこに部分的にしかかかわれないが、その部分はいっとき全体にも匹敵した働きをみせる。細胞のたえざる入れ替わりによってこそ生体が維持されてゆくのと、あたかもメカニズムは同じである。それは個人の創作では絶対に経験できないことなんですね。
連詩もまた、ひろく集団で書くということのなかにくくられるということなのでしょう。いや、われわれはほんとうは、たとえひとりであっても集団として書いているのですが、ふだんはそれが見えない状態で書いているにすぎないのかもしれません。連詩はそうした詩作の本質的な共同性を拡大して見させてくれる実験と鍛錬の場のひとつなのです。そういえば、連詩とは全く関係のないところからも、「詩は万人によって書かれなければならない」(ロートレアモン)と、響き高い命法が発せられています。