詩脳ライブをやりました(その1)

詩脳ライブ(ディレクター野村喜和夫、プロデューサー野村眞里子)というのをやりました。3月5日、代官山のシアター代官山というところで。劇場は子供の俳優を養成する劇団ひまわりの持ち物で、かわいい少年少女がうようよしていましたが、なぜそんなところでやることになったかというと、詩脳ライブは「東京芸術見本市」(恵比寿ガーデンプレイス)の関連イベントになっていて、その主催者側から当該劇場を使うようにと指定があったからです。べつに私のいかがわしい趣味というわけではありません。
詩脳ライブ。もともと脳には興味があり、でも、きちんとした科学的な好奇心によるものというより、脳=狂気という私の勝手な連想からくる興味でした。詩とは聖なる言語の狂気ではないか。それが萌え、あるいは燃え上がるところが脳なのではないか。そういうイメージです。自分の詩作を振り返ってみても、ごく初期から、「脳葉ひらひら舞っている」なんて表現が出てくるし、その後も、「読む脳細胞分枝は」「野の果て/脳の喩」「名づけても名づけきれない平たい神の脳のなかで」「脳の粟粒が凪ぐのを待ちながら」「脳を/地平すれすれにまで下げてゆくと/いつも稲妻だ」「脳奥の、畝また畝の、古いまばらな神経の繁みのあいだに、私はてっきり、穀粒か何かだと思っていた(……)発狂7分前、/虫が動き出した」──と、ここまで脳につきまとわれては、もう詩脳ライブやるっきゃないでしょう。
冗談はともかく、詩脳ライブを企画するにいたった実際のいきさつについてすこし述べておきましょう。一昨年、ロッテルダム国際詩祭に招かれて行ったとき、たまたまその年の基調テーマが「詩と狂気」で、その一環として、ベルギーの詩人兼脳神経科学者ヤン・ローレンスによる、詩と脳と狂気の関係についての講演があったんですね。彼は私の友人でもあります。あとでその英文レジュメも読ませてもらいましたが、なんでもドーパミンという脳内物質が深く関わっているらしい。それが一定の働きをしていないとき、かえって思考は多様な自由の度合いでもって機能する。そうして、より創造的で直感的あるいは連想的になり、通常のロジックではついていけないような、場合によってはそれが分裂病をもたらすような、つまりひとことでいえば「詩的」なものになる。そういう論旨でしたけど、最後にローレンス氏は、従来の認知科学はこうしたことすべてを「悪い」のひとことで片付けてしまうが、果たしてそれでよいのかと、パウル・ツェランなども引用しつつ、詩人らしい問題提起をしていました。私は深く興味を掘り起こされ、また大いに勇気づけられました。
ところが、そのローレンス氏が、なんと去年の夏、一年間の予定で日本に滞在することになったのです。喜ぶまいことか。仲間の岩切正一郎や城戸朱理ともはかって、じゃあ彼を囲んで何かやろうと、そういう話になったわけです。
くわしいイベントの内容については次回に報告しましょう。