古典への回帰

どうも最近、古典が復活しているようですね。いまも隣でかみさんがジョイスの『ダブリナーズ』に食いついています。新訳が出たんですね。いいことです。詩はともかく、小説は、とくにその物語的側面にかぎっていえば、昔話の6つのタイプみたいな祖型があって、日々生産されている新作は、それをとっかえひっかえ使い回しているようなものですから。だからといってバリエーションが無意味ということではないので、生産者にはまあがんばって書いてくださいというほかありませんが、消費するほうとしては、もういい加減うんざりという気分にもなるわけです。
思い起こせば、何年かまえ、『ドストエフスキーがやってくる』(集英社)という特集本が送られてきたときには、えっ? と思いました。いまどきドストエフスキー? という疑問がごくあたりまえのように生じたからです。進行一途の大衆社会状況にあっては、もうかつての世界の大文学なんて絶滅危惧種もいいところではないか。長い間そう思ってきました。ところが、どうもそうではないらしい。それからの「カラキョー」ブーム、「蟹工船」ブームはご存知の通りです。なんか、大衆社会状況も一段落、というか、飽和点に達してしまったのでしょうか。
何を隠そう、私自身の心境も変化したんですね。以前は、人類の知的遺産の目録よりも、生み出されつつある文学や思想の現在のほうが、圧倒的に私の関心事でした。しかし、五十を過ぎた頃からでしょうか、次第に古典に親しむようになってきています。きっかけは、『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』という長ったらしいタイトルの長篇詩を書くために、ホメロスの『オデュッセイア』を通読したことだったんですが、その縁で前出ジョイスの『ユリシーズ』にすすみ、また日本文学では『源氏物語』の原文に挑戦しています。私は国文科の出身で、学生の頃、この大古典をなんと写本のコピーで読まされ、たちまち挫折した苦い思い出があるんですが、そのリベンジみたいなものですね。
ただ、入眠前のわずかな時間をその読破にあてているため、ページのすすまないこと、はなはだしい。『ユリシーズ』はそれでも、全三巻の邦訳本の二巻目に入り、物語の進行で言えば午後8時(北国の夏なのでまだ外は明るい)、主人公ブルームが海岸の岩陰で若い娘のスカートのなかを覗きながらマスをかくくだりにさしかかっています。『源氏物語』のほうはさらに遅く、『葵』の巻、光の君があのいたいけな紫の上に男の槍を突っ込み痛い思いをさせたあと(とは書かれていませんが)、『賢木』の巻、秋の嵯峨野を六条御息所との別れに向かうあたりです。いやはや、どちらにしても楽しい古典への回帰ですわ。