「詩ノ窟」探訪

週末、京都に行ってきました。河津聖恵さんが主宰する「詩ノ窟」というイベントに参加するためです。仕事の関係で昼間の研究会には間に合いませんでしたが、朗読と親睦の夕べには完全参加することができました。
まず、会場が面白かった。京都駅まで出迎えてくれた京谷裕彰さんら「詩ノ洞」メンバーに案内されたのは、バスに揺られて20分、西陣地区にある「つる紫」というところでした。コミュニティハウスというらしいのですが、ワーキングプアだという数人の若者たちがシェアして借りている普通の民家です。その2階が彼らの居住スペース、そして1階がフリースペースになっていて、各種会合のほか、雑魚寝でかまわなければ宿泊も可能とのこと。
さてわれわれの場合は、「詩ノ洞」メンバーが座卓に卓上コンロと鍋の具材をならべて、いきなり宴会がはじまりました。宴たけなわとなったところで朗読、という進行です。そしてまた歓談、議論。そのあいだにもさまざまな人が出入りします。おおむね、詩や短歌を書いたり、文学を研究したりしている若者たちですが、特筆すべきは、彼らの多くがなんらかのかたちで実践的な活動にもかかわっているということでしょうか。詩と抵抗とは、ここでは別物ではないようで、私にはそれがとてもまっとうかつ刺激的に思えました。むかしでいえば新左翼的な雰囲気といったらいいのでしょうか、私もガキの頃に活動歴があったので、どことなくなつかしささえ覚えます。
まだこんな若者がいたのか、みたいな。いやいや、そういうノスタルジーはいけませんね。彼らにとってはもろもろ現在の問題なのでしょうから。ワーキングプアにしろ雇用不安にしろ、グローバル資本主義社会がもたらしている今ここの現実そのものであり、彼らの「抵抗」も、いわば身体的リアルに根ざしたきわめて切実なものなのでしょうから。
とまれ、親睦は深夜にまで及び、私を含めた居残り組はさらに明け方近くまで語り合って、なんと雑魚寝までしてしまいました。私には実に久しぶりの体験で、たまたま京谷さんが私の『金子光晴を読もう』を読んでいてくれたこともあって、なんだか放浪時代の金子光晴になったような気分でした。あ、またノスタルジー。駄目ですねえ、初老詩人は。
明けて19日の昼近く、今度は京都大学の、「くびくびカフェ」なる場所に案内されました。そこがまたすこぶる愉快。なんでも、京大を不当解雇された非常勤職員のいくたりかが、抗議のために大学正面の、あの時計台の真ん前の広場を占拠して、青空カフェのようなスペースにしてしまっているのです。そのセンスたるや、語のもっとも深い意味でのユーモアすら感じさせて、これぞポエジー。おまけに、メンバーのひとりが私の詩や批評を読んでくれていて、すっかり気を良くした私は、差し出された訪問帳に、彼らを励ます数行を即興で書きつけました。