国語学原論(その1)

詩は言語文化の精華であるとされる以上、詩人が言葉に敏感であるのはいうまでもありません。それはしかし、たとえば国語を正すというような態度とはちがいます。私もふだんはあまり目くじらたてないほうですし、むしろ言葉は規範をすこしはずれているぐらいのほうが豊かで自由な感じがして好ましいと思っています。というか、言葉というものはもともと生き物のようにゆらぎ、あるいは流動しているものであって、正しいも正しくないもないとしたものでしょう。
そうはいっても、やはり気になる現象はいくつかありますけど。たとえば同音異義をめぐる配慮のなさ。けさもテレビをみていたら、近所の嫌がらせを受けている主婦のコメントとして、「誰がやったのか検討がつかない」とテロップが出ていました。ワープロソフトの普及以来、この手の間違いが多すぎますね。最近は訂正のアナウンスもないから、もう間違い自体に気づいてない?
まさか。でもつくづく、日本語というのは同音異義が多い。加えて、漢字の使用がそれを助長しているわけですよね。かくして、私の場合とくに困るのは朗読のとき。たとえば、「あるいは波」(詩集『スペクタクル』所収)という詩をよく朗読するんですけど、その第5連、「捕獲の網を手に/誰だわたくしは/夏の日の少年でもあるまいし/ただこんなにも睾丸が/睾丸だけが」とここまで読んで、ふっと迷ってしまうんですね。つまり聴衆は「睾丸」を「紅顔」ととってしまうのではないか、だからいっそ和語に直して、「ふぐり」もしくは「きんたま」と読んだほうが親切ではないか…… もっともそのあとすぐ、「卵黄のように垂れた月をまねて重い」とつづくので、ああ「きんたまのことか」と、聴衆はやや遅れて見当がつくわけですけど。
でまあ、同音異義の弊害をなくすために、いっそローマ字表記にしてしまえば、という意見もあるみたいなんですね。つまりkentouでは「見当」なのか「検討」なのか文字の上でも混乱をきたすはずだから、自然と同音異義語は減少するというわけです。
もうひとつ、もっと深刻かもしれないのが、いわれのないアクセントの移動という問題。これは指摘する人もあまりいないようので、いっそう困りものです。テレビやポップスの歌詞の影響でしょうか、とくに若い人のあいだで、名詞の無アクセント化に加えて、本来強勢を置くべきではない助詞や活用語尾を強く発音する傾向があり、聴取しにくいことはなはだしい。コンビニのレジなんかで私は、耳の遠い老人のように、えっ? えっ? と何度も聞き返してしまうことがあります。悲しいかな、悲しいかな、自国語が外国語のように聞こえてしまうとは。