今年上半期の詩集から(1)

今年上半期に出た詩集から、とくに印象に残っているものを挙げておきましょう。

まず、岩切正一郎さんの『エストラゴンの靴』(ふらんす堂)。いわゆるポエジーを感じさせるところの、すてきな詩集です。

たとえば一本の木があるとします。やがて鳥が止まりに来て、さえずる。木はそれを自身の奥深くからやってきた声のように聴き取り、なんともいえない喜びをおぼえる。木は自己の本質を鳥という他者によって知らされ、鳥もまた木によっていわば鳥以上の存在となったんですね。

このような世界の神秘な関係性を熱く静かにみつめているのが、岩切さんにほかなりません。この詩人の感覚と思考を通ると、木は「時をこえてゆくながい旅」の途上にあって、そこへ鳥がやってきてさえずるのだけれど、それはつぎのように表現されます。「ある日のこと、/ふしぎな軽さが腕にとまり、音をかなではじめた。」こうして木は深い共生の時間のなかに入る。「この日から、/きみはたくさんの旅にあみあわされ旅をしている。/ひとつの場所にじっと立ち/はにかむように揺れながら。」

ね、すてきでしょ。木は動くことができないはずなのに、それでも旅をしているなんて。さらに想像をたくましくすれば、木とは詩人のことであり、鳥の到来を待ち望み、ひとたび到来すればそのさえずりを聴き取ること、それがすなわち詩作ということになります。いや、詩人はむしろ鳥であり、世界という木とのあいだに編み上げた旅、それが作品であるのかもしれません。

こういう、まさにポエジーな世界、最近なんだかあまりみかけなくなった気がしませんか。それだけに岩切さんの仕事は貴重で、大いに称揚したいですね。ただし、彼の詩は生真面目なだけじゃない。西脇的な諧謔を思わせるところもあって、なかなかに懐は深いです。

新鋭鳥居万由実さんの『遠さについて』(ふらんす堂)は、なんというか、とても衝撃的な詩集です。そこにはさまざまなものがむきだしにちらばっていて、人称も性も事物も、かつての同一性を失ってただの破片のようにころがり、どこかべつの星のような強烈な光を浴びながら、叫びを上げ、あるいは沈黙を深めているかのようです。

しかし、出口を求める必要はないんでしょうね。むきだしであることにおいてそれらは恐ろしく自由であり、ちょっとした風の吹き具合で、他との思わぬつながりを見せてくれたりもするんですから。「ハイヌーン/ザトウクジラの嚙むサトウキビの思い出に/白夜の心臓も目をつむっている」。

ところで、主体は、「私」は、どこにいるか。おそらくどこにもいません。未知のつながり、あえていうならばそれこそが「私」でしょうね。そうした不思議な光景、「浮きあしだつ元素たちの国」を無修正のままページに定着したような鳥居さんの力量は、まぎれもなく第一級のものであると確信します。