今年上半期の詩集から(2)

新鋭の仕事がつづきます。
佐藤勇介さんの『She her her』(思潮社)はとびきりユニークです。大きめのビジネス手帳かとみまがうサイズの本に、せいぜい見開きページ程度の、矩形にレイアウトされた詩群が収められていて、読むと、これがまた、混線した電話を聴いているような、つまりほとんど読み得ない感じなんですね。なんだこれは? 言葉遊びがあり、さまざまな参照や引用があり、古語から俗語までの多層にわたる語彙が跳梁している、というようなことはわかるけれど、しかし全体としていったい何を言わんとしているのか。
たぶん、何も言おうとはしていないんですね。じゃあ、ただのナンセンスかい? いいえ、そうでもありません。言葉を生きるとはどういうことか、佐藤さんの関心はただそのことだけにあり、そのリアルな様態が、全篇を通して、いわば無修正のまま伝えられているのです。
それがすごい。言葉を生きるとは、統覚的に秩序正しく言葉を運用することなんかではなくて、むしろ、言葉の自律的な運動に翻弄され、他者の言葉にきりもなく横断されながら、そこでなお叫んでいる主体の声があるということ、ゆえに、「網の目に絡め捕られ実体が蒸発してしまふから(巨大なからっぽのあやとりをしてるみたい)だからこちらこそ浮薄こちらこそどうも」。
山田亮太さんの『ジャイアントフィールド』(思潮社)も、佐藤さんとはちがった角度から、言葉を生きるとはどういうことかを問い直しています。
以下、いささか理屈っぽい話になりますけど、私たちの言語活動をたった二言に要約すれば、選択と結合ということになるでしょう。私たちは、「きょうは父の日なので早く帰ろう」と単純に発話するときでさえ、「あした」や「1984年のあの日」やその他の無数の可能性のなかから「きょう」を選び取り、それを「父の日」へ、「なので」へ、「早く」へ、「帰ろう」へと、同じ選択の手続きをつぎつぎと果たしながら、同時にそれらを意味のある連続へと結合してゆくのです。もしこのシステムに狂いが生じたらどうなるか。「父の日は帰らない遅く1984年のあの日」。コミュニケーションはたちまち混乱をきたし、病院には失語症めいた症状を訴える患者があふれることでしょう。
しかしそこから山田さんの仕事は始まります。すすんでそのシステムを狂いの方へとずらしたらどうなるか。「何かこの世ならぬもの」(栞の瀬尾育生さんの言葉)が現出するのではあるまいか。こうして、「もうそろそろきれいな皮膚になる。破壊を期待する」という言説の秩序は、「もうそろそろ期待された皮膚を食べる」という未聞の事態に変容していきます。
果敢な試みというべきでしょうね。とりわけ興味深いのは、そこでは父が不在となり、双子が増殖すること。けだし、システムとは父の別名であろうし、双子の関係とは、父なる法の裏をかくように逃亡する名前と存在のすてきな戯れでしょうから。