通り過ぎる女たち

朝日カルチャーセンター横浜というところで、「フランス詩を探す時間の旅」という講座をもつようになってから、ほぼ一年が経ちます。だいたい3ヶ月ごとに内容を更新しますが、昨年秋はランボーを、今年冬はルネ・シャールを読みました。ランボーは私のかつての専門であり、ルネ・シャールも大好きで、現在その翻訳の仕事が進行中です。
しかし、いつもランボーやシャールではちょっときつい。今年春はすこしくつろいで、絵画をみたり音楽を聴いたりしながら、シュルレアリスムとその周辺の詩人たちを取り上げました。そして今年夏は、「通り過ぎる女たち」「青の物語」「物の立場」「死と再生」といったテーマをたてて、時代横断的に読みました。
たとえば「通り過ぎる女たち」。街を歩いていると、日にひとりやふたりは、「いい女」もしくは「いい男」とすれ違いますよね。なんでこの世にともに生きていながら、彼女たち彼たちと深く交わることがないのだろう、もし交わることができたら、なんて思いませんか。ちなみに萩原朔太郎は、独身時代そのように思って地団駄を踏んだそうですが、実はこの夢想が、私見によれば、フランス詩の歴史のなかでもひとつの立派なテーマになっているんですね。
その系はおそらく、ボードレールの「通りすがりの女に」あたりに端を発して、アポリネールの「ロズモンド」、そこでは、すれ違った美女のあとをつけて家までつきとめるというストーカーまがいの行為が語られますが、その嬉遊曲的な寄り道を経て、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』にとどめをさす、と私はみています。もちろん『ナジャ』の場合は、俗にいえば「ゆきずりの恋」的に話は発展してしまうわけですけど、しかしブルトン的にいえば、偶然の出会いが世界の無意識にまで深められ、そこでようやく詩人はナジャを、この神秘の女を、あらためて見失うことになるわけです。それはそして、あらかじめ定められたかのような敗北を語る中世のあの聖杯探求の物語群へと還流してゆくのではないでしょうか。なお、わが日本現代詩にもこのテーマは受け継がれて、たとえば清岡卓行に、そのものずばり、『通り過ぎる女たち』という詩集があります。
ね、面白いでしょ。もっと知りたければ、私の講座にどうぞ、なんてことはあまり言いたくないのですが、でも、ぶっちゃけた話、私の悩みは、まあ内容からして仕方ないのですが、受講生の数が少ないということです。歩合制なので数がふえればギャラも上がる、どころの話ではありません。いつも開講できるぎりぎりの数で、冷や汗の連続なのです。で、すこしテコ入れしたいという事務所側からのありがたい働きかけで、今度、拡大版的に、「野村喜和夫のフランス詩鑑賞」という特別講座が設けられることになりました。10月24日です。興味のあるかたは私のホームページをご覧下さい。