あなたは漢文脈系?和文脈系?(その1)

突然ですが、日本語の表記、いやエクリチュールについて少し考えてみます。
古代の私たちの祖先は長い間文字をもちえませんでした。そこへ漢字が到来して、彼らはそれを二通りに使用したわけです。ひとつは音を転記するただの記号として。やがてそれはひらがなとなりました。ひとつは概念を盛る器として、ほぼそのままのかたちで使われ、今日にいたっているわけですね。前者はいわゆる大和言葉と一体となり、私たちの身体の近くに、男性的というよりは女性的に、主語というよりは述部形成的にまつわりついているような気がします。いっぽう後者は、さながら法秩序のように、私たちの脳のおもてに、女性的というよりは男性的に、述部というよりは主語形成的に存在しているのではないでしょうか。
たとえば私が、

私は性愛が
ぬふたふぬふたふ
春の泥だ

と書いたとします。そのとき、エクリチュールにおいてどんなことが起こっているか。私がまず書きつけた「性愛」、それは漢語であり、それゆえ、いわば頭からやってきた言葉です。しかし、それだけでは詩にならないと直感した私は、つぎに、それを「ぬぷたぷぬぷたぷ」と、つまりオノマトペとつなげます。それはいわば首から下の身体をくぐらせることでもあって、ことが性愛なのですから首から下が問題になるのは当然といえば当然ですけど、こうして「性愛」という漢語は「春の泥」という和語へと変換されるのです。
へー、そんなもんかねえ? でも、これが日本語で書くことということだと、私は思っています。私は古代人でもあるのでしょうか。いまの私のエクリチュールとは逆のプロセス、つまり渡来の漢字が母なる和語の身体に文字の衣を着せようとしていたのを、ついきのうのことのようにおぼえています。まさか。でも、早い話が、『古事記』はその母なる身体の痕跡をとどめており、『日本書紀』になるとその痕跡は父なる渡来の文体で覆われてしまったのでした。
ならば、母なる身体の痕跡のほうへ。もうずっと以前のことですが、哲学者の坂部恵の著作を読んでいて、哲学の概念をあらわす言葉というとどうしても漢語が多くなるわけですが、坂部さんは、「おもて」とか「うつし」とか、一見うすぼんやりした大和言葉を、しかし漢語よりもニュアンスに富む言葉として敢然と選び取り、哲学的概念操作の中核に据えているんですね。そのことに、ある種の感動すらおぼえた記憶があります。