あなたは漢文脈系?和文脈系?(その2)

ならば、母なる身体の痕跡の方へ。でもそんなの、あんたの趣味にすぎないじゃん? 漢語漢文脈のほうが力強くて好き、というやつだっているだろうが? もちろんそうです。そうにはちがいありません。
詩についていうなら、たとえば近代最大の詩の変革者萩原朔太郎は、『月に吠える』において、和語中心の伸びやかな口語自由詩の可能性を開拓したのち、最後は漢文読み下しのような、きびしい、しかし貧しい文語詩に転じました。われわれの現代詩も、朔太郎からそれほど遠くまで来たとは思われません。日本語で詩を書くというのは、いまもそうした二重性を条件として引き受け、かつ、可能性としてひらくことなんでしょうね、きっと。
ところで、いま、城戸朱理さんと「討議近代詩」というのを「現代詩手帖」に不定期連載していますが(第1回はゲストに吉本隆明さんを招いての全体的な展望、第2回はゲスト松浦寿輝さんで萩原朔太郎。第3回はゲスト吉増剛造さんで西脇順三郎、第4回はゲスト樋口覚さんで朔太郎以前の詩人たち)、近代以降の詩人たちを、無理を承知で漢語漢文脈系(以下Kと略す)と和語和文脈系(以下Wと略す)に色分けしてみるというのも、遊びとして面白いかと思います。なんだか人を性的趣味によってSとMに分けるみたいですけど。
さてそこで、「ついに新しき詩歌の時は来たりぬ」の島崎藤村はWでしょうね。Kの筆頭は土井晩翠漢詩の延長みたいで、革新性はあまり感じられません。晩翠ほど極端でなくとも、蒲原有明高村光太郎あたりもKでしょう。逆に、宮沢賢治中原中也はW。どっちつかずなのが西脇順三郎金子光晴でしょうか。とくに西脇の言語は、つくづく不思議な日本語です。さきにあげた朔太郎は本質的にはWで、その弟子筋のうち、三好達治はW、伊東静雄はK。伊東を朔太郎が激賞したのは、自らは失敗した漢文脈でもって、奇妙に清新な日本語が創出されているようにみえたからでしょうね。「太陽は美しく輝き/あるひは 美しく輝くことを希ひ/手をかたくくみあはせ/しづかに私たちは歩いて行つた」──たしかに、朔太郎の漢文読み下し調よりずっといい。
戦後になると、荒地派の詩人たちはKが多く、次の「感受性の祝祭」の詩人たちは、大岡信さん、谷川俊太郎さんをはじめ、Wが多いような気がします。
KといいWといい、もちろんそれは主義や流派というより書き手の生理みたいなものですから、どちらが優位にあるかというような問題ではありません。また、女性の詩人だからといって、ことごとくWというわけでもなさそうです。白石かずこさんなんか、どちらかといえばKではないでしょうか。
えっ、私ですか。まぎれもないWでしょうね。城戸さんは、これまたまぎれのないKでしょうから、「討議近代詩」のホスト同士、バランスがとれているといえます。では最後に、あなたはK? W?