宇宙と息とマトリックスと──賢治・中也・道造をめぐって(その1)

 宮沢賢治中原中也立原道造。近代詩人のなかでもっとも人気のある三人ですよね。でも私にとっては、賢治について論考を一本書いた以外、これまであまり言及してこなかった三人です。そこでこのあたりで、まとめてめんどう見てみようかと。
 きっかけはというと、このあいだ、清里高原にある「ギャラリー譚詩舎」(オーナー布川鴇さん)の企画で、吉田文憲さんと「賢治・中也・道造の詩的世界観をめぐって」という対談を行ったことです。
 対談ではいろんな問題が提示されて、さすが吉田さんが相手だと話が深まると思いましたが、ここでは、ごく個人的に、賢治・中也・道造という三者と私との関係──というか距離を、それぞれの読書体験を思い出しながら測ってみるというのはどうでしょう。案外共感をもたれる読者もいるんじゃないか、そしてその距離を通じて、何かポエジーについての問題が浮かび上がってくるかもしれません。
 もう30年以上も前のことですが、私は早稲田の文学部の日本文学科というところに在籍していて、あろうことか、当時から漠然と詩人になろうとしていました。やめときゃよかったんですが、運命というやつでしょうかね。で、卒論にもだれか近代詩人を取り上げようと思っていて、とりあえず視野に入ってきたのは中也でした。わりと好きで読んでいましたから。
 賢治も好きで、当時ちょうど刊行が始まっていた『校本 宮沢賢治全集』を予約して毎月の配本を楽しみにしていたほどですけど、同時に賢治世界は自分にとってあまりにも遠い感じがしていたんですね。いや、賢治世界を近いといえるひとのほうがまれでしょう。私の知るかぎりでは、真の意味で賢治の影響を受けた現代詩人は天沢退二郎ただひとりではないでしょうか。
 誤解を恐れずにいえば、賢治には何かしら非人間的なところがあるんですね。その想像的宇宙はひとを魅了してやまない空前にして絶後の美を有していますが、しかし長いあいだそこにとどまると息ができなくなるような、そういう薄い空気をも感じてしまいます。早い話が、「(このからだそらのみぢんにちらばれ)」なんて真顔でいうひとと同行する怖さを思ってください。吉本隆明も、「わたしたちは驚嘆せずにはおられない」と賢治について語り始めるんですね。そしてこうつづけます。「あまりに人間の匂いがしないかれの世界に慣れることができないし、あるばあいには畏れさえ感ずるほどだ。かれが並はずれて〈自然〉の景観と付き合いきれたのは、けっして生活環境が田園だったからではなかった。景観を彩る〈自然〉の破片のひとつひとつを、かれが性的な対象のように扱い得たからであった。風景に流れてゆく情緒はかれのエロスと同じであった。」