宇宙と息とマトリックスと──賢治・中也・道造をめぐって(その2)

 このような賢治理解に接するにつけても、私はふと、ランボーを思い出します。ランボーというと、その作品から直接影響を受け、またそのユニークな翻訳でも知られる中也との比較がまず考えられるところでしょうけど、私に言わせればむしろ賢治です。賢治こそランボーに似ている。なぜなら、ランボーにとってもまた、自然はエロス的な対象だったんですね。『イリュミナシオン』に所収の名高い「あけぼの」という散文詩は、夜明けの大地を女神にたとえて、そのヴェールを一枚一枚はぎ取りながら、ついには女神との合体を果たすかにみえる少年=詩人の欲望の物語ですが、そのほかにも、『イリュミナシオン』には、賢治の詩句ともみまがうきらびやかで硬質な想像的宇宙の破片がちりばめられています。比較してみましょうか。まずランボーから──

土手の斜面では、鋼とエメラルドの草むらで、天使たちが毛織の衣をひるがえす。
(……)
一方、星や空やその他何やかやの花と開いたやさしさが、土手のまえへ、花籠のように降りてくる、──われわれの顔に向かって降りてくる、そしてその下方に、花と匂う青い深淵を作る。

 つぎに賢治──

パッセン大街道のひのきから
しずくは燃えていちめんに降り
はねあがる青い枝や
紅玉やトパーズ またいろいろのスペクトルや
もうまるで市場のやうな盛んな取引です

 ね、似てますよね。この賢治の詩句を引用しながら、前出吉本隆明はさらにつぎのように述べています。「なぜ景観はかれにとってこのように硬質に色彩に充ちて装われなければならなかったのか。こうしなければ〈自然〉はかれにとって飽きやすく、素っ気なく、それ自体で美でも醜でもなく、生活以前にそこに存在するものにすぎなかったからだ。景観を装飾することと、景観に愛恋することとはおなじであった。こういう情慾的な〈自然〉との関係では、景観を飾るために編み出した言葉と、景観がじっさいにそのように視えることとは、区別がなかったはずであった。そういう意味で宮沢賢治は根源的な〈自然〉詩人といってよい。」
 この的確な指摘は、ほぼそのままランボーにもあてはまるかのようなんですね。