宇宙と息とマトリックスと──賢治・中也・道造をめぐって(その4)

 ところがです、以上のような理由で漠然と中也を卒論にと思いながら、そろそろ準備にとりかからなければならない時期になっても、どうも気がすすみません。なぜだろうと思ううちに、突然に気がつきました。現代詩を書くということは、ある意味で中也を離れようとすることであって、あるいは、中也のようには書けないからこそわれわれは現代詩を書くのであって、それで自分は中也を論じる気になれないんじゃないかと。たかが卒論なんだから実作とは分けて考えればよさそうなものですが、やはり詩となるとそうもいかないんですね。結局私は、半ば逃げるように、泉鏡花の小説世界を卒論にえらびました。『校本 宮沢賢治全集』と並んで、当時やはり配本中だった岩波書店版『鏡花全集』も予約購読していたので、それをベースに、あの独特の魅惑的な幻想文学の読み解きを行ったわけです。頭でっかちなだけの、稚拙でたどたどしい読み解きでしたけど。
 それはともかく、現代詩を書くことは中也を離れることだという理屈には、すこし説明が必要かもしれません。中也においては、吐く息のすべてが詩になったといわれるくらい、詩的発話への天性の資質があったわけですけど、その無媒介的な主体のあらわれが、私にはかえって現代詩の生成をブロックしてしまうのではないかと思われたんですね、たぶん。現代詩はもうすこし意識的に、構成的に、主体と作品との関係を設定すべきなのではないか。たとえば「盲目の秋」というよく知られた作品があります。

風が立ち、波が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

 ランボーを思わせるこのⅠの書き出しに私は大いに詩的高揚をおぼえ、先を期待するのですが、Ⅱ以下になるとなにやら倫理めいた言説が表に出てきて、Ⅳともなればさらに甘ったるい真情の吐露の垂れ流し状態となって、もちろんそこは中也ですから、独特のリズムや調べがあって読む者を引き込むわけなんですけど(「せめて死の時には、/あの女が私の上に胸を披いてくれるでせうか。/その時は白粧をつけてゐてはいや、/その時は白粧をつけてゐてはいや。」云々)、しかしそれにしても、ポエジーとしてはいちじるしくその濃度を薄められてしまっているとしか思えなくて、この落差をどう捉えたらよいのか、なんかこう途方にくれてしまうような感じがしたんですね。どなたか、中也の正しい読み方を指南していただければ幸いです。
 ともあれ、以来、「ひとつのメルヘン」や「曇天」など、主情の邪魔の入らないいくつかの例外をのぞいて、中也は私から遠ざかりました。