宇宙と息とマトリックスと──賢治・中也・道造をめぐって(その6)

 「のちのおもひに」後半の2連はこんな感じです。

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようと思ひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のかなたに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

 かすかな擬人法の味わいとともに実現されている「夢」から「寂寥」への、なんといったらいいのか、戸が開かれたように(事実「それは戸をあけて」とあります)、あるいは次元がひとつ増したように、空間が奥まりひろがってゆく感じ、それを私は読むたびに覚え、胸がさわぐんですね。
 それは、繰り返しになりますけど、建築的といってもいいかもしれません。道造作品の形式そのものが建築的であって、ソネットというきっちりした枠組み、しかしまた同時に、それを構成する言葉と言葉との不思議な隙間のようなもの、ブランクのようなもの──相俟ってそれらは、まさに詩が住まう言葉の家そのものではないでしょうか。
 このとき、マトリックスが誕生するんですね、道造マトリックス。夢の深まりを構築する詩の空間、語だけではなく語と語のあいだも沈黙を充填されて息づいているような詩の空間を、私はそのように呼びたい誘惑に駆られます。しかもこの道造マトリックス、不滅というか何というか、創始者の寿命とはうらはらに、四季派という誕生の地を離れて戦争を生き延び、戦後の日本現代詩にまで潜り込むんですね。いちいちそのさまを追跡する余裕はいまありませんが、一例だけ、戦後に屹立する特異な思想詩として知られている吉本隆明──今度は詩人としての登場です──の『固有時との対話』、私見によればそこにも道造マトリックスは入り込んで、建築とその系、すなわちブランクや風や光や影といったエレメントたちを供給しているのです。あるいは、刻々と風や光の干渉を受けて歪み、屈折する「固有時」という名の建築、それは道造の詩学の行き着いたさき──「のちのおもひに」のあの「夢」が赴いていった「寂寥」という時間と場所においてこそ立ち上がるかのごとくです。
 いかがでしたか。賢治とのある種絶対的な距離、中也との伸び縮みしてやまない不定の距離、そして道造との意外に近いかもしれない距離。三者とのあいだに私がとった距離は以上のごとくですが、最後に、人生の秋にもなっていったいどういう風の吹きまわしなのか、これまでいささか辟易気味に対してきた融通無碍な中也的発話に、最近妙に惹かれ始めていることをも言い添えておきます。