悪疫性/フラットフィールド性/身体性

忘年会というのはただひたすら飲みまくるものと心得ていましたが、先日行われた六本木詩人会(和合亮一主宰)の忘年会は、すくなくともその一次会は、なんとアルコール抜きで長丁場の討議を敢行するというものでした。メンバーには私の名前もありましたが、所用のため参加できなくなったので、急きょメッセージを送ることにして、そう、これって紙上参加というんでしたっけ、以下はその全文です。なお、「悪疫性」と「フラットフィールド性」というのは、詩の現在をめぐる状況認識のためにコーディネーター役の及川俊哉さんが提示したもので、かんたんにいえば、前者はテロやウイルスといった世界を覆う潜在的なカタストロフを、後者は芸術概念の変容をともなう大衆社会状況を、それぞれ指しているようです。
「悪疫性」と「フラットフィールド性」というのは、とても的確な、とても面白い作業仮説ですね。
その二つを座標軸にとって詩人を分類するというのも面白い。さてと、自分はどのあたりかな。私なりに修正を加えるとすれば、もうひとつ身体性という軸をとって三次元にしてみる、ということでしょうか。
ともあれ、私たちは潜在的な交戦状態にあり、しかしながら、敵も味方もみえない。なぜなら、すべては水平に向き合っているからです。恐るべき世界からの視線も、あるいは逆に、超越者への畏怖に満ちた視線も、いつしか消えてしまった。したがって、論理的には自分自身とたたかってもよい、いやたたかうしかないということになります。もちろんそれはあまり生産的とはいえませんが。そうしてできた傷口を言語としてさらす。最近の若い世代の詩の多くは、そのように読むことができると思います。
ところで、こうした現状認識、「悪疫性」と「フラットフィールド性」は、時代は古いですが、私の専門でもあるランボーの作品、とりわけその『イリュミナシオン』に所収の「大洪水のあと」という詩篇を想起させます。旧約によれば、神は地上をリセットすべく大洪水を起こしたのでした。しかし人間は、そのカタストロフの記憶が薄れると、たちまち地上をまた覆い始め、くだらない行い──それこそ「悪疫性」と「フラットフィールド性」にみちた行い──をするようになります。そこでランボーは、呪文のように言葉をうねらせるのです。「湧き起これ、池よ、──橋を越え、森を越えて、泡立て、うねれ。──黒い棺の布よ、オルガンよ、──稲妻よ、雷鳴よ、──高まれ、うねれ。──水よ、悲しみよ、高まれ、もう一度大洪水を起せ。」(粟津則雄訳)ここで重要なのは、もう一度大洪水が願われているとしても、それは空から降るのではなく、地の底から湧き上がるべきものだということです。地上の水によるカタストロフ。象徴的な言い方になって申し訳ありませんが、私たちもどこかでこの「水」を欲望すべきではないでしょうか。