デフレと詩人のすてきな関係

世界が現状のようにあることへの怒り、それゆえ世界を詩的に捉え直したいという欲望、そういう怒りと欲望があるかぎり、私は詩を書きつづける。
とまあ、今回はいきなりカッコよく決めてみました。そう、あのパリの詩人のように。いまから150年もまえの話ですけど、彼はパリの貧民街の最上階に住んでいました。下の街路をガラス売りが練り歩いています。突然「行動のデーモン」に襲われた詩人は、ガラス売りに向かって声をかけ、商品がみたいからと最上階まで登らせたあげく、色絵ガラスがないのなら用はないと突き返します。さらに、ふたたび通りに出てきたガラス売りの背中めがけて花瓶を落下させ、彼が背負っていた商品のガラスをこなごなにしてしまうのです。「人生を美しく! 人生を美しく!」とか叫びながら。
以上のエピソードは、ボードレール散文詩「不埒なガラス売り」からのものです。私もようやくボードレールの世界が身にしみてわかるようになったんですね。ありがたいことです。
話は飛びますが、昨今の日本を襲う新型インフルならぬ新型デフレ、某夕刊紙に載っていた某エコノミストのコラムによると、これが実に怖いらしいんですね。以下はその要旨です。
生活がデフレモードになると、人間はぼぉーっとしてくる。たとえば、超低価格の衣料品。デフレプライスを維持しようとすれば、色・柄・形はどうしても単純になる。やがて、売る方も買う方もこの単純さに慣れきってしまう。すると、色も柄もだんだんどうでもよくなる。かくして、人々はしだいに色彩感覚や審美眼を失っていく。魂の死だ。
またたとえば、大量安物買い型の食生活をしていれば、味覚が鈍り、味に対する生き生きとした感受性が失われる。つまり舌がぼぉーっとしてくる。ぼぉーっとした舌の持ち主たちを相手にすれば、料理人たちの腕前もぼぉーっとしてくるだろう。これが「集団的ぼぉーっと症候群」であって、その結果は実に恐ろしい。
第一に、ぼぉーっとした人間はだまされやすい。権力に牛耳られやすい。詐欺や独裁への抵抗力が弱い。第二に、「貧すれば鈍する」の逆もまた真なりで、「鈍すれば貧する」。「ぼぉーっと病」が慢性化すれば、創造性も生産性も低下する。人々が総じて鈍感になる。そうなれば経済活力が減退する。まさしくじり貧である。
ね、怖いでしょ。まさに世の中が不埒なガラス売りみたいになるわけですね。詩人の出番です。わが同志のみなさん、そういう世の中めがけて、言葉の花瓶を投げ落としてやろうではありませんか。