瞬間の雪

外は雪、ことしはじめての本格的な雪です、と2月2日に書いて、はやくも十日あまりが過ぎました。即時性を旨とするブログにはあるまじき遅延でしょうか。
それはともかく、温暖化プラス巨大ヒートランドの東京23区は、近年ほとんど雪が降らなくなったばかりか、降ってもそのそばから溶けてしまうことが多く、なかなか積もりません。もっとも、そのほうが交通機関などにとってはありがたいわけで、でも私のような、しみじみと寒かった昔の冬の気候を知っている者には、ちょっとさみしい気もします。雪合戦、雪だるま。そういった言葉も、あと20年もすれば死語になってしまうんでしょうね。
雪といえば、ささやかながら忘れられない出来事があります。あれはたしか、数年前の4月初旬、4日か5日だったと思いますが、その午後5時頃のことでした。私は書斎で原稿を書いていましたが、書きあぐねて、ふと窓の外をみると、雪が、みぞれに近いぼたん雪が、降っているではありませんか。その年は記録的な暖冬のせいで桜の開花も早く、数日前から花吹雪がみられたほどでしたけど、メタファーなんかじゃない、ほんものの雪が舞っているのです、それも四月に。
雪はすぐに雨に変わり、やがてその雨もやんでしまいましたが、あとで階下の居間に降りてテレビをつけたら、4月に入ってからの雪は、東京では19年ぶりというではありませんか。
ところで、雪にびっくりしたのは、その季節外れぶりだけからではありませんでした。さっき原稿を書いていたといいましたが、おりしも私は、宮沢賢治のあの「永訣の朝」について書いていて、ですから、その詩のなかの雪が、まるでそのままテクストを出て、わが書斎の窓の外にも降り及んだかのようだったんですね。テクストの内と外がこんなにも呼応するなんて、おお奇跡、といっていいんじゃないでしょうか。
みなさんご存じだと思いますが、「永訣の朝」においては、詩人の最愛の妹が死にゆこうとしています。外は「くらいみぞれ」模様。「あめゆじゆとてちてけんじや」(あめゆきとってきてください)」という瀕死の妹の言葉に、詩人は、「まがつたてつぽうだまのやうに」外に飛び出していきます。するとどうでしょう、くらい外は瞬時のうちに光明にあふれ、そこから、「さっぱりした雪のひとわん」がもたらされるのです。その奇跡のような変容を、私ごときが、どのようなメタレベルの言葉で語ることができるだろう、いやできはすまい、と書きあぐねて、ふと眼を上げたそのとき、窓の外にまぎれもなく雪が認められたのです。瞬間の雪を通して、もはや内と外もなく、空間はあげて、ポエジーの現実化=現実のポエジー化という至高点へと引き絞られていたのです。