去年下半期の詩集から(1)

以前、2009年下半期の詩集を回顧したので、すこし時期はずれですけど、2009下半期に出た詩集からいくつかピックアップしてみましょうか。
詩的言語って、日常言語とはちがう、あるいはその欠陥を補うための、聖なる言語であって、隠喩を中心に組織されるそこには、なにかしら言語の純粋状態が出現し、またそれを通して、世界の神秘が暗示されていなければならない──とまあ、これが従来の常識でしょう。
ところがです、いまや、そうした通念をすべて脱ぎ去ったところに、詩の新しい言語態があらわれつつあるのかもしれません。それがたとえば田中宏輔の『The Wasteless land』(書肆山田)ってことになりますか。じっさいそこには隠喩らしい隠喩もなく、またいかにも詩人然とした発話のポーズもなくて、あるのはただひたすら、話し言葉を駆使した終わりのない饒舌、あるいは言説内容の野放図なずれや拡散、つまり従来なら散文的ないしは日常言語的と一括された、ナマで不純な言語の様態です。
それでいてこのカオスを詩としか呼びようがないのは、それらがあつまって、全体として爽快な意味の真空状態を達成しているからでしょう。笑い、もっとも高度な笑いがそこをつらぬいているんですね。「嘔吐だと/床の上に/べちゃって感じで/存在がはりついちゃうような気がするけど/下痢だと/シャーッ/シャーッ/って感じで/存在が/はなち/ひりだされるってイメージで/なんだか/きらきらとかわいらしい」というように。
いやいや、ちがう、ちがいますよ、詩的言語は永遠に不滅です、と強く主張しているのが、杉本徹の『ステーション・エデン』(思潮社)。「これ、走り書きのノートです」と言われても面白くもなんともないが、「走り書きの炎です」とひねられると、がぜん、「走り書き」も「炎」もそれ以上の何かに変容する──とこのような機微をポエジーと呼ぶならば、ほとんどこの詩集の全ページにわたってポエジーがあらわれ、はじけ、あるいは滲んでいます。「走り書きの炎」も、実は集中の詩篇のタイトルから借用したものですが、それはそのまま、杉本的エクリチュールの様態をも指しているようです。そう、そこに事件らしい事件は起こらない。主体はただ歩いていて、日常のささやかな人や事物と接触する。でもその接触が言葉の関係の更新とともに記されると、その瞬間に、まるでオセロゲームのように、接触はかつてない世界の輝きへとひるがえるのです。生きる歓びが、あるいは悲歌のきざしが、そこに生まれるんですね。「雪の色ほどの奇蹟が/路肩に棄てられた車のバックミラーに照る、その一瞬の歌を/影となってくちずさみ、瓦礫だらけの砂利道を歩く/忘れた海への、剃刀のような方位を問うたび/はるか成層圏は冬の紫に染まるのだ」。ポエジー派として出色の詩集でしょう。