去年下半期の詩集から(2)

去年下半期は若い人の活躍がめざましかったですね。まず、高見順賞に決まった岸田将幸の『〈孤絶—角〉』(思潮社)。
紐解くと目次もなく、ふつうの行分け詩の風景もひろがらず、読む者はやや不安のうちに、散文形式の断片で織りなされたページを繰っていくことになりますが、断片のさらなる断片化を引き起こすかのような岸田さんのエクリチュールは、しばしば通常の文章構造を逸脱しつつ、不思議な衝迫力もあり、読む者を引き込んでいきます。
多彩な人称の交錯を通して、場合によっては犬にも語らせながら、この少壮の詩人があらわにしようとしているのは、何かしら事後へと生まれ出てしまった者の傷であり、痛みであると思われます。そう、誕生はそれを経験できないことにおいてほとんど死と同義であり、あらかじめ私たちは、自己という以上の、誰かの死後の生を生きる身体であるのかもしれず、あるいは、誕生と死という「両端にみずから噛みつき、しかし生そのものは口腔というなきものとしてある」。その「口腔」から出てきた「精神の肉」の言葉を、なまなましく、無修正のまま書き留めること、それがこの「edge of the solitude」の意味なんですね、たぶん。けだし、詩とは──文学とは──つきつめれば自己の誕生をどう捉えるかという問題でしょうから。
つぎに、中原中也賞を受賞した文月悠光の『適切な世界の適切ならざる私』(思潮社)。文月さんは岸田さんよりさらに若く、まだ現役の高校生とか。こうなるともう事件ですね。恐るべき早熟ですけど、出来上がってしまった詩人ではけっして書けないような、詩の生成そのものの姿がじつに生々しく魅力的に立ち現れているんですね。
テーマという面からみると、思春期ならではの、学校や家庭を舞台にした「私」と「世界」との生まれたての関係性が、生まれたてのままに表出されているという感じなのですが、それと相俟って、そうしたテーマを繰り出す言葉の群れ、それらもまた、詩へと画定される手前で未分化にうごめき、複層的にたわむれている、それがすばらしいんですね。大人の詩ならばメタファーとして固まってしまうような表現が、ここでは瞬時に描写の次元に横滑りしたりもする。たとえば「金魚」というイメージ、それはあきらかに経血のメタファーではあるのでしょうけど、同時にしかし、アニミズム的に、金魚それ自体の具体性のうちに捉えられてもいるのです。同じくまた、秀作「まつげの湿地」から──「私は足を露で濡らしながら、まつげの湿地に分け入っていく。からだ、ことば、ひかり、全てをいま開くために」。
中尾太一の『御代の戦示の木の下で』(思潮社)も、今日の抒情言語の水準をあたうかぎり高めて、とても心を打つ詩集ですが、論じるスペースがなくなりました。べつの機会を待つことにします。