旅に病んで

来週はイスラエルのニサン国際詩祭に招かれて、テルアビブに飛びます。以前に参加したミュンヘン在住の四元康祐さんからの情報ですと、とても心温まるもてなしをしてくれるところらしく、いまから訪問が楽しみです。争いの絶えない土地柄だけに、どうかお気をつけて、と心配してくれる人もいますけど。
しかしまあ、人間いたるところに青山あり、でしょう。数年前の年末、バリ島で休暇を過ごしたときは、10月に現地でテロがあったばかりで、心のどこかにそれを警戒する気持ちがありました。もちろん何ごともなく、密林におおわれた渓谷沿いの、それはもう別天地のようなヴィラで、静かに静かに、蛙の鳴き声を聞いて過ごしました。いや、何ごともなく、というのは正確ではないかもしれません。最後の最後になって、妻ともども猛烈な下痢に襲われてしまい、絶食と脱水症状とでふらふらになって帰国してきましたから。テロではなく、ウイルスにやられたというわけなのですが。
ふと思い出されるのは、2004年3月のことです。スペインのマドリードで列車爆破テロがあり、多数の死傷者が出たそのとき、私は空路セビリアからパリへ移動中で、ちょうどマドリード上空を飛んでいたのですが、最初はマドリードまで列車を利用する予定でしたから、少々ぞっとしました。
いやあれらはテロなんかじゃない、戦争だ、みえない戦争だ──と、突然ですが、私のなかの時代認識は叫びます。誰かと誰かがたたかっているはずなのにそれはみえず、戦場は突然、無関係な人々のうえに柘榴のようにひらく。
おおっと失礼、ついえらそうに、21世紀の戦争論なんかぶったりして。人間いたるところに青山あり、の話に戻りましょう。年に数回は旅の暮らしを余儀なくされている身としては、客死という可能性もゼロではないでしょうね。旅に病んで夢は枯れ野を駆けめぐる、みたいな事態にだって遭遇しないともかぎらない年齢になりつつあります。
それでも旅をする、その理由とは何でしょう。旅をすると、逆説的ですけど、なんとなく心が落ち着くんですね。身体は慌ただしく移動したりしているのに、家にいるよりも心は落ち着く。それは旅が、寄る辺なさといったらいいのでしょうか、われわれの実存の本来のありようというものをシミュレートしているからではないでしょうか。とくに外国に行くと、言葉もわからないし、食べ物や習慣もちがう。まさに無防備で泣きながらこの世に産み落とされたあのなつかしい(?)瞬間と同じ状態になるわけです。もっとも、グローバル化によって、そういう状態もだいぶ薄まっている感じはしますけどね。
では、行ってきます。帰国したら詩祭の模様を報告しましょう。