マラルメ全集完結

マラルメ全集(筑摩書房)がついに完結しました。全5巻。最初に出た第2巻「ディヴァガシオン他」の奥付をみると、1989年。なんと、完結まで足掛け20年にもおよぶ難事業だったんですね。その原因のひとつは、「賽の一振り」をはじめとする詩作品の翻訳の困難さによるものでしょう。じっさい、最後の配本となったのは、ほかならぬ第1巻「詩・イジチュール」で、それだけ訳出に時間がかかったということになります。
 マラルメというと、たとえば「世界は一冊の書物に到るために存在している」とか、なにかとんでもないことを考えていたような印象がありますけど、同時に、ある意味ではとてもリアルな考えの持ち主でした。といっても、生活上のリアルということではなく、言葉を生きるということの別様のリアルが息づいていたような気がするんですね。マラルメの企図を詩作の実践に即していうなら、語と語の組合せを、意味のみならず音や文字面にも細心最大の注意を払いつつ、極限まで──「私」を非人称にまでして──追求しようとしたこと、でしょうか。そうでもしなければ、あらかじめ与えられてしまっている〈現象〉としての言語をひとつの〈存在〉にまで高めることは到底できない、とマラルメは考えたのでしょう。
 たとえばフランス語で「昼」はjour(ジュール)といい、「夜」はnuit(ニュイ)といいますが、意味内容とはあべこべに、前者のほうが暗く、後者のほうが明るく響いてしまうんですね。そのことをマラルメは大いに嘆きました。だからといって、jourに代わる、もっと明るい響きをもつ単語を勝手に作り出すわけにもいきません。それが言語というものの限界です。ではどうするか。語そのものを変えることができないのなら、語と語とのあいだを大胆にまた精妙に変えていくしかない。
 これが私のいう別様のリアルです。このリアルを生きることによってマラルメは、「部族の言葉」に「より純粋な意味」(「エドガー・ポーの墓」)を与えることができると考えたのではないでしょうか。そう、ちょうどベンヤミンが、諸言語のあいだ、つまり言語から言語への翻訳という行為に「純粋言語」を夢見たように。
 ついでにいえば、そのベンヤミンが、言語の詩的もしくは魔術的側面にふれて、「この領域をもっとも深いところで解明しているのはマラルメだ」と、その『来るべき哲学のプログラム』にはっきり述べているのは、不思議に因縁めいていると言わなければならないでしょうね。ベンヤミンとは比較にならないくらい、時代も場所もマラルメから遠くへだたったところにいるわれわれですけど、いやしくも詩作つまり言語空間の冒険に乗り出そうとする以上は、ほんのわずかでもいい、この極北の詩人の大いなるパラノイアの分け前にあずかろうではありませんか。