今年上半期の詩集から(その1)

 ちょっと遅くなってしまいましたが、今年上半期の詩集を回顧してみましょう。去年下半期は若手の活躍が目立ちましたが、今年上半期は中堅・ベテランが大いに気を吐いたようです。
 いうまでもなく日本語は、漢字仮名交じり文という独特の表記システムをもつ言語ですが、ある脳科学の専門家によれば、日本語話者の脳は文字を視覚的に入力しつつ、漢字を図像対応部位で、仮名を音声対応部位で処理しているとのこと。その二重性そのままに、私たち詩人は詩作のとき、意味と音とのあいだで揺れ動くわけですね。とくに仮名主体に書くと、しばしば意味よりも音が先行して、そのずれが思わぬ詩的効果を生むこともあります。
 こうした機微を徹底して追究しているのが、海埜今日子の『セボネキコウ』(砂子屋書房)です。タイトルからして、「背骨紀行」なのか「背骨気候」なのか、仮名による多義性曖昧性が存分に生かされていますよね。
 本文を繙くと、眩暈がするほどのひらがなの洪水。言葉の結びつき方も奇妙に自由で、「さえずりをあつめると理由がとけます」「むねのほとりで/なづけたみずをくるしいですか」といったフレーズをいくらでも取り出すことができる。そこから、揺らぐ語法にふさわしく、男と女の、決して合一することはない微妙な関係性という主題がにじみ出てきます。というか、この詩人にとって、言葉から言葉への関係も、「わたし」から「あなた」への関係も、不定に揺れ動き、あるいは流動してやまないことにおいて、等価なんですね。その危うい、そして妖しい美しさ。
 日本語で詩を書くということ。ふだんそんなことはあたりまえすぎてあまり考えませんけど、四元康祐の『言語ジャック』(思潮社、2400円)も、べつの観点から、きわめて刺激的なコーパスを提供しています。
 長年の外国暮らしがそうさせるのか、四元さんは、日本語を外から扱い、あるいは外へと連れ出して、思うさまびしばしと酷使しながら、日本語というこの可もなく不可もない手持ちの材料によってとりあえず何ができるかを、徹底して追究します。「言語の密林」という作品から引けば、「(……)見渡せばすでに書かれたものもいまだ書かれざるものも等しく絡み合って数えきれぬ名詞動詞形容詞形容動詞助詞助動詞間投詞句読点括弧疑問符その他の記号が鬱蒼たる密林をなして立ちはだかり幾重にも重なったその枝葉の隙間の薄暗がりから何者かの目玉が(一個だけ)こっちを見ている。」
 こうして書く場が設定され、あとはもう縦横無尽に、谷川俊太郎の『日本語のカタログ』以来ともいうべき、ある種壮大なブリコラージュ(手仕事)が達成されていきます。なかでも圧巻は、言語(日本語)を女体にみたててそれとセックスするという、不謹慎きわまりないメタ詩「セックス・アンド・ザ・ラングエッジ」でしょうか。言葉の膣を抜けると、そのさきは「光の子宮」「彼岸花揺れる言語の彼岸」。かくありたいものですね。