今年上半期の詩集から(その2)

 つぎに、北川透の『ブーメラン乱帰線』(思潮社)。北川さんといえば、詩と詩論の両面において長いあいだ現代詩を牽引してきたひとりですが、近年ますます旺盛な筆力をみせて、まったく衰えというものを知らないかのよう。この詩集も、古希を越えた詩人の仕事とは思えないエネルギーと冒険精神に満ちていて、驚異というほかありません。
 全体は三部に分かれています。第一部は「扉を開けよ、不眠の鳥よ」と題された長詩で、とある朗読会に誘われた詩人が、「取れたての鰯のような、新鮮な詩」を書いて朗読しようと悪戦苦闘する日々を、ドキュメンタリータッチで綴った即興的作品。諧謔味にあふれていて、一気に読ませます。
 第三部も「「海馬島傳」異文」という長篇作品ですけど、しかし今度はうって変わって、想像力を駆使した散文詩の力業をみせる。「海馬島」とはこの日本の記憶と現在のことでもあるのでしょうが、シュルレアリスム的手法に基づいた北川さんならではの共同体批判の健在ぶりには、あらためて脱帽ですね。
 でも、ポエジーとしてみた場合、もっとも輝いているのは、ふたつの長詩をつなぐ間奏曲のように置かれた第二部、「わがブーメラン十篇」という短詩群ではないか、そんな気がするんですね。少年期の回想をベースにしているから、いってみれば、北原白秋のあの『思ひ出』の北川透版です。「十四歳、ぼくはぼくが死ぬほど嫌いだった。/ときどき、青い腫れ物にさわるように、/くろずんだ爪の伸びた指で、/ぼくはぼくに触れた。」このような苦い抒情に、読者は戦慄的な共感をおぼえずにはいられないでしょう。
 最後に、河津聖恵の『龍神』(思潮社)。誰のなかにも南がある、とジル・ドゥルーズは言いました。光と祈りの詩人河津聖恵も、いつからか南に向かうようになったようです。といっても、京都在住の河津さんにとって、いわば直近の南、紀州・熊野の地へと。だがそこには、豊かな自然と濃密な神話的宗教的な気がたちこめていて、それらを存分に呼吸しつつ、できうれば詩の光に、「詩のいのち」に変えたいと彼女は希求するんですね。その成果が、去年「フィールドワーク詩集」と銘打たれて刊行された『新鹿』でしたが、『龍神』はその第二弾というわけです。
 なによりめざましいのは、詩集あとがきの言葉を借りれば、「私自身の言語の生命と外界の生命とが、呼び呼ばれ交錯し甘美な火花を散らし」ているそのさまです。詩を書くことの喜びが、圧倒的な臨場感をもってつたわってきます。しかも、作家中上健次の生と死を確かめるという、旅のもうひとつの意味がそこに加わって、詩が詩を超えていくような強い感動がもたらされるんですね。「新宮からあくがれでた魂は/等高線をちりちり今もさ迷うのだ/限りなく書きたい、書き尽くしたい──」。「書き尽くしたい」欲望へと、中上でもあり河津でもあるような主体が流れ込み、融け合う。中上健次に『奇蹟』という小説がありますけど、河津の「フィールドワーク詩集」もまたひとつの奇蹟でしょう。