「わたげ」の機微(その1)

 前回紹介したように、今年の秋は私の出演する詩のイベントが目白押しです。特筆すべきは、そのなかに定型をめぐる企画がふたつも組まれていることでしょうか。ひとつは、もう終わりましたけど、10月16日の詩歌梁山泊シンポジウム(三詩型交流企画)「宛名、機会詩、自然」(出版クラブ会館)、もうひとつは、11月6・7日の、現代詩セミナーin神戸「詩のことばと定型のことば」(神戸女子大学教育センター)。
 そこで、詩と定型についてすこし書いてみましょうか。ふだん定型について考えることはほとんどなく、現代詩セミナーin神戸での私の講演のタイトルも、「定型から遠く離れて」、なんですけど。
 まず定型とは何かという定義ですが、短歌・俳句に代表される音数律の機制のこととします。自由詩にもある種の定型はあって、たとえばソネットとかありますけど、いまは考えません。音数律に問題をかぎります。
 音数律、とくに7音と5音の組合せが日本語の韻律の基底にあること、それは覆しようのない事実です。けれども、どういうわけか私の場合、ほとんど反射的あるいは本能的に、自分の詩句が7・5の音数律に収斂するのを避ける傾向にあるんですね。蛇に出くわすと思わずぞっとして身をそらすみたいに。
 なぜだろうと考えるわけです。短歌や俳句を読むことは嫌いではないのに、いやむしろ自分でも遊びで俳句をつくったりすることがあるぐらいなのに、それでも、いざ自分が詩作するとなると、なるべく定型から遠ざかろうとする。たまに75調になりそうなときは、おおっといけないと、わざと4音や6音にずらしたり、べつの音韻的ないしはリズム的効果で75調をぼかそうとする。そうすると、逆にそこには、現代詩の側からどういう機制がはたらいているのか、と問うことも可能だと思うんですが。
 やはり天の邪鬼なんでしょうかね。共同体的なものを忌避する素質が関係していると思います。近代の詩人たちの多くが共同体からはじき出され、周縁に追いやられて、「蕩児の家系」もしくは「呪われた詩人」とならざるをえなかったいきさつ、それが原初の記憶のように私のなかにも組み込まれていて、DNAですね、自由詩のDNA……
 とはいえ、定型よりも非定型のほうが自由だとは、必ずしも思っていません、定型とはいわばボンデージであって、それを装着したときの肉の悦びといったものを、私とて知らないわけではありません。ただ、非常に乱暴に、図式的にいえば、一般に俳句や短歌は詠むもの、すなわち口辺の作動であるのに対して、詩は書くもの、すなわち手の作動、あるいはエクリチュールということになるでしょうか。