「わたげ」の機微(その2)

 夢見るようにいうなら、私は、音数律の問題をより広くリズムの問題へと解き放ちたいんですね。あらゆる文学生産には定型(=音数律)生み出す力があり、それを無視することはできないけど、同時に、定型(=音数律)生み出す力もあるのではないだろうか、というわけです。
 まず、定型を産み出す力、これは中原中也を読むときなんかにつよく感じます。いわば、手がたえず口辺に回帰していくんですね。中也の場合はそれが魅力になっていますけど、逆の場合もありうる。

あをぞらに
銀魚をはなち
にくしんに
薔薇を植ゑ

山村暮鳥の「烙印」という詩です。「にくしんに/薔薇を植ゑ」というのは、イメージ的にはある意味すごい組合せですけど、リズム的には定型律にとどまっており、ひいてはそれが暮鳥の詩エクリチュールの限界になったような気がするんですね。
 つぎに、定型が産み出す力について、これはもう、暮鳥の盟友だった萩原朔太郎のものでしょう。例の「竹」連作に、「根の先より繊毛が生え」という詩行があり、この「繊毛」を「センモウ」と読むか「わたげ」と読むかで議論があります。細かいところですが、案外これが分岐点になるのではないか。

光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるへ、

 ふつうに「センモウ」と音読みしたくなるし、事実、7・5の音数律をベースにしているこの詩ではそう読むのがよいとする論者が多いなかで、那珂太郎は、「わたげ」と訓読みすべきではないかと強く反論するわけです。根拠とする理由はふたつあって、ひとつは、ある版で朔太郎自身がじっさいに「わたげ」とルビをふっていること、もうひとつは、より詩の構造に内在する理由として、「音韻の磁場」つまり「竹」tAkE「根」nE「生え」hAEとつづくAとEの母音反復の効果が「繊毛」wAtAgEにも及んでいるはずであること。