「わたげ」の機微(その3)

 さすがは『音楽』の詩人那珂太郎ですね。私は断然那珂説につきたい。というのも、この「わたげ」の機微こそ、定型が生み出す力なんですね。「わたげ」と読むと、7・5の音数律からわずかにずれてしまうけれど、そのずれ、その差異が「音韻の磁場」に、すなわち、しかじかのテクストに固有の、内在的な言葉の音楽に通じるのです。
 最後に、ぐっと時代が下って、私の先師渋沢孝輔の詩から──


わたしの背後の埃の中に
もう帰ることはできないねじくれた途
ねじくれたまましだいにかすみ
もうどうでもよい過去となる思い出となる
わたしの踏み迷ったこころの中に
どこをどう通っても脱けることのできないねじくれた途
ねじくれたまましだいにあらわれ
もうどうにかしなければ
生きられない痼疾となる幻覚となる
それでも容赦なくわたしを越えて闇の方へ
わたしを越えて未来の方へ
ひたすらねじくれていっている奇怪な途


わたしはここでもひとりなので
ひとりであらゆる幻の途にむかって身を投げる


 「スパイラル」という詩ですが、読まれるとおり、こんな現代詩でも、音数律は部分的に回帰してきています。しかし同時に、エクリチュール、あるいは手の力能によって、音数律はそれこそ螺旋状にずらされ、より包括的なリズム的持続へと生成変化していくかのようです。まさに反復、差異を産み出す反復ですね。その結果、イメージとしてのスパイラルは、この詩の姿そのものをも映し出す意味深いメタポエティックとなったのです。
 こうして、ふたたび夢見るようにいうなら、音数律が生み出す差異としてのリズム、音数律とはねじれの位置に、あるいは音数律をありうべき基底としつつも、そこに回帰してしまうことはなく、別様のあり方へと──音素のレベルから連辞やイメージの組成、さらにはテクスト全体の構成にいたるまで──もたらされる主体の声としてのリズム……