2010年下半期の詩集から(1)

特筆すべきはまず、なんといっても、大ベテラン岩成達也と粕谷栄市が、またまた大きな仕事を成し遂げたことでしょうか。岩成さんは三部作完結編ともいうべき『(いま/ここ)で』(書肆山田)によって、粕谷さんは例によって満を持したといった感じの『遠い川』(思潮社)によって。詩風のまったく違う二人ですけど、共通しているのは、そう遠い将来ではないおのれの死を見据えて、それぞれの詩的世界をほとんど究極の地点にまでおしすすめているということ。そこでは批評の言葉も沈黙してしまうほかはなく、ここでも贅言は控えましょう。それにしても、昨今の老詩人のパワーはすごいですね。70歳代といえば、昔だったらとうに死んでいるか、詩をやめているか、詩想が枯れきってしまっているか、そのいずれかだったでしょうに。
そろそろベテランの域に入るのでしょうか、井坂洋子も『嵐の前』(思潮社)を刊行しました。井坂さんは、ひとことでいえば、そっけないほど簡潔な言葉でこの世の深奥を浮かび上がらせることが出来る、真に畏怖すべき詩人ですが、この詩集においてもその本領は十分に発揮されています。表題作から引けば、「私はノートに蟻の家を書く 白い卵がびっしり眠る部屋 ゆうらんと時間が回り 夜更けの冷たい外気が 短いパジャマからはみでた膝を濡らす 枸杞酒のにおう茶箪笥の 奥から降り出した雨は やがて麦畑を竹ぼうきで激しく 叩いていった」。
中堅以下に移りましょう。生誕を災厄にたとえたのはルーマニア出身のフランスの思想家シオランでしたが、この世に生まれ出たことを、なんらかの理由で受難としか捉えられない人たちがいます。渡辺めぐみの『内在地』(思潮社)も、そうした実存の重みを背景にした詩集です。収録作品の大半は寓話的な仮構を借りており、たとえば「川を追う」という詩では、「神の言葉を使う子どもがいた/水の紐で首を吊り五歳で夭折」と端的に受難のテーマが導入されたのち、「ただわたくしたち/水の紐を捜すとき/河床にいまも子どもの素足の端をみる」──作者の受難が投影されたこの「子ども」のイメージの切実さこそ、この詩集のすべてでしょう。
藤村記念歴程賞に輝いた相沢正一郎『テーブルの上のひつじ雲 テーブルの下のミルクティーという名の犬』。処女詩集以来、一貫して詩的散文のスタイルをとりつづけつつ、追憶と愛惜のリリシズムとでもいうべき独自の世界を追求してきた相沢さん。この詩集もその延長線上にありますけど、しかし同時に、いままでになかった深い余韻を漂わせてもいるんですね。それは作者の成熟を物語るという以上に、なにかしら底の抜けたような生の現実──死とともにある生──を伝えて、読者の心は騒ぎます。「やっぱり、わたしもきのこになっていくんだ──そう思うと、恐怖よりも恍惚感にとろけながら、深い眠りに落ちていく」。