2010年下半期の詩集から(2)

1980年代、「洗濯船」という同人詩誌が存在しました。城戸朱理、田野倉康一、広瀬大志高貝弘也ら、それぞれに個性的な若手の有力詩人がそこに拠りましたが、彼らにはある共通した雰囲気があって、それは、言葉で何かを伝えるというより、言葉の生起そのものをひとつの出来事にしようという、詩の正統ともいうべき野心でした。
昨年秋、その「洗濯船」同人のうち、城戸さん広瀬さん高貝さんと、なんと三人が、申し合わせたように、詩集を刊行しました。知命前後の彼らがこういう健在ぶりを示すのは、友人としてうれしいかぎりですけど。
高貝弘也の『露地の花』(思潮社)。半年前にも『露光』という詩集を出しています。この希有な詩人については私も長いあいだ伴走し、おりふしコメントも添えてきましたが、今回とくに印象深いのは、二つの詩集のタイトルに「露」の字が重なっていること。むきだしの、あらわな、という意味に通じる一方、「つゆ」のあえかさやはかなさにもつながっていくこの「露」の趣は、いかにも高貝ワールドにふさわしい。そして、具体的な地名がたくさん織り込まれているせいもあるのでしょうか、彼固有の、未生の声を採集して歩く不思議な散歩者としての姿が、この『露地の花』においていっそうくっきりと浮かび上がるようです。「朴訥と、あなたは語る──/さんざめく未生以前の、子どものこえで//あの 早稲田の蹲の、/(水口)/「生の溝」の子鼠」(「露地の花」)。
広瀬大志の『草虫観』(思潮社)。広瀬さんはすでに数冊の詩集をもち、中堅詩人としての認知を得てはいますけど、いまひとつ、評価が追いついていない気もするんですね。その理由のひとつに、彼のえらんだテーマが、ホラーにも通じる「恐怖の研究」であったことが挙げられるかもしれません。あまりにも特殊であり、おどろおどろしいので、みんな敬遠してしまうんじゃないか。
今回はどうでしょう。全体は二部に分かれ、第一部「草虫観」のほうは、彼の独壇場ともいうべき詩的ホラーの世界が、しかしこれまでになく詩としての味わいを深めているような気がして、いいなあと思います。ところが、彼はそこで満足していない。驚くべきは第二部「現世記」のほうかもしれず、これまで詩人では誰も使ったことのないような経済用語を濫用して、あたかも、苛烈な市場原理の荒野にひとり抒情の言語をぶつけるべく立ち向かうかのごとくなんですね。ありえないことです。でもそのありえなさが、読んでいるうちに腹の底からの笑いにかわってゆく、そんな感じです。「通貨で糞尿の垂れた遺書の上の首吊りにぶら下がりおまえはわたしを殺す/そしてわたしもおまえを殺す」。この破天荒な言葉の生起をもたらしてくれた詩界のドンキホーテ広瀬大志に乾杯です。