2010年の詩集から(3)

旧「洗濯船」同人たちによる詩集刊行の同時多発ぶりを書いていますが、きわめつけは城戸朱理。『世界─海』(思潮社)と『幻の母』(思潮社)と、ひとりで二冊の詩集を同時刊行してしまったのですから。城戸さんはかつて、「洗濯船」の主導的役割を果たし、なかんずく、吉岡実エズラ・パウンドに言及しつつ、それらの系譜のうえに自分たちの詩作を位置づけようとしました。すなわち、個を超えた膨大な知の収蔵体としての主体を設定し、そこから、彼自身の評論集のタイトルをかりるなら、「潜在性の海」のような言語空間を立ち上げること。そのコンセプトを引き継いでいるのが、『世界─海』という詩集です。
一方、『幻の母』のほうは、北国岩手の出身らしい、清冽な抒情の書き手としての城戸朱理がよくあらわれています。いわば、より彼自身となった彼ですね。じっさい、「跋」にもあるように、本書のモチーフは「故郷に流れる北上川を河口から歩き始めて、その源流を訪ねてみたい」ということらしい。単純な、しかし切実でもある希求ですね。そうしてそれは、「求めるほどに遠ざかり/探すほどに隔って」という認識へと上書きされてゆく。そもそも、起源などというものは人間が勝手につくりだした幻想であって、川の水のより根源的な営みはそんなレベルをいともかんたんに乗り越えてしまうのです。
最後に、若手の詩集から、高橋正英の『クレピト』(ふらんす堂)を挙げておきましょう。頁を開いたとたん、意味よりなによりさきに、その詩の空間の美しさに眼が奪われました。凡百の新人とは言葉のセンスがちがう感じですけど、それは殆ど見た瞬間にわかるものなんですね。
タイトルの「クレピト」とは、ラテン語で「音がする、ひびく」という意味らしい。しかしまた、「クレ」は同じラテン語で「信仰箇条」を意味する「クレド」を呼び、「ピト」は日本語の「ひと」に音通するから、なんとなく「信仰の人」みたいな裏の意味をひそませている気配もあります。
というのも、高橋さんは僧侶でもあって、この詩集も、詩を通じてどことなく仏教的な宇宙観が語られているような趣があるからです。いや、詩はたんなる手段ではないでしょう。仏教的な宇宙観を通じて、詩もまた探求されているんですね。とくに印象的なのは、「こうして涌きいでてきたもののどこへゆくこともなくどこへもゆけずに/だってどこもここではないと言うものたち」というフレーズが、やや変奏されながらも繰り返しあらわれることで、それは「今ここ」こそが宇宙一切という作者の宗教的法悦を語りながら、同時に、この詩集に「涌きいでて」くる言葉そのものの姿を映してもいるのでしょう。
こうして、頁から頁へ、いわば言葉のエロスをひびかせながら、そのふるまいが信仰の深まりでもあるようにすること。それが高橋さんの希求でもあるでしょうか。となると、すぐさま私などは宮沢賢治の世界を想起してしまいますが、おそらく両者は近いと思われます。