ついに南米の地を踏みました(その2)

詩祭二日目。数カ所の会場に分かれての、ポエトリー・リーディングがはじまりました。午前中に訪れたバレンシア郊外、カラボボ大学第二キャンパスでは、私の朗読の出番はなかったのに、日本からの客はめずらしいのか、何組もの学生たちから、一緒に写真を撮らせてくれというリクエストがありました。なんだかスターになった感じ。それもそのはず、考えてみれば中南米は、詩人が敬意をもって遇される土地柄なんですね、きっと。
夜、前日と同じカラボベーニョ劇場でのポエトリー・リーディングで、私の出番となりました。「デジャヴュ街道」を、ウードの演奏と私自身の声を録音したCDとともに朗読しましたが、スタッフのミスで、なんとCDがすぐに聞こえなくなるという事態に。録音の声と生声とを追いつ追われつのフーガのように絡ませようとした私のもくろみは見事に失敗、しかし朗読終了後、詩と現実の関係について、いくつかの議論を呼ぶことになりました。というのも、朗読に先立って私は、おおむね以下のようなことを述べておいたからでした。「これから読む詩「デジャヴュ街道」には、なにかしらカタストロフのあとの廃墟といったヴィジョンがでてきます。ご存じのように日本は、この春巨大なカタストロフに襲われました。しかし私はこの詩を、大震災よりもずっと前に書いています。すると詩には予言的な機能があるということになるのでしょうか。」たんなる偶然でしょう、と言う人、いやたしかに詩には特別な力がありそうな気がする、という人。まあさまざまでしたが、いずれにしても、現実と言語はたんなる主従の関係にあるのではなく、むしろ、それこそ追いつ追われつの競合の関係にあるのだ、ということになるのでしょうか。
私以外の朗読はすべてスペイン語で私には理解の外でしたから、ここにコメントすることはできません。あしからず。
プログラムが終了して劇場の外に出たとき、あたりになにか不思議な音が満ちているのに気づきました。はじめ、植え込みや池のなかに何か音響の仕掛けでもあるのかと思いました。やや金属的な鳥のさえずりのような、あるいは甲高くかわいい木管の叫びのような。そういえばホテルのエントランスでも聞こえていました。私は立ち止まり、音源をさがそうとさえしました。すると、詩祭のスタッフのひとりが教えてくれたのです。あれは庭ガエルという蛙の鳴き声ですよ。
その瞬間、私は南米ベネズエラに来た幸福にひたされていました。日本できく蛙の鳴き声なら、草野心平がそのすべてを詩にしてくれています。しかし、それとは全くといっていいほどちがう鳴き声なんですね。鳥のさえずりでもあり、楽の音でもあり、ノイズでもあるのですから。みえないが、なんとも可憐な、それでいて力強い無数の小さな喉のふるえ、そのひとつひとつに大地の微細なリアリティがこめられているような喉のふるえ。これ以上に詩的な何かがあるでしょうか。それは断じて癒しなんかではない。たとえ束の間にせよ、騒々しいまでに晴れやかに私を支えてくれる生きる喜びそのものなのでした。