全米朗読ツアー(その2)

つぎに訪れたのは、ニューヨーク。プロヴィデンスから鉄道Amtrackでの移動です。私にとってニューヨークはじつに12年ぶり、あのときはまだツインのワールドトレードセンターがそびえ立っていました。そこで、朗読の前に、その跡地、いわゆるグラウンド・ゼロに行ってみると、巨大な工事現場と化していて、いくつもの斬新なデザインの高層ビルが建ち上がりつつあり、グランド・ゼロの面影はもうありません。いや、それは囲いのなかに保護されていて、外からはうかがい知ることができないのです。予約しておけばその囲いの中に入れるらしく、じっさい、そういう人たちの行列ができていました。そして、それよりもはるかに多くの観光客たちが、囲いのまわりをぞろぞろぞろぞろ、新ビル群や犠牲者の慰霊碑を写真に収めたりしています。つまりいまや、グラウンド・ゼロは巨大な観光地とも化しているのであって、往時茫々がこのカタストロフの場にも押し寄せているんですね、いやはや。
そのグラウンド・ゼロにほどちかい「詩人の家」が、ニューヨークでの朗読会場でした。1階にロビーとホール、2階に図書室や会議室という、日本では考えられないようなうらやましい施設です。ガンダー氏のやや長めのイントロダクションでは、田村隆一吉増剛造のあとに来るのが野村だ、というような身に余る紹介をされ、面はゆい思いをしました。そのあと、私、フォレスト、恭子さんの3人で、「街の衣のいちまい下の虹は蛇だ(コーダ)」「あるいはマンハッタン」「デジャヴュ街道」「あるいは波」の4篇を朗読。「ご当地ソング」ともいうべき「あるいはマンハッタン」が結構受けたので、その最終数行を掲げておきます。

マンハッタンとは
剝きあらわれ(剝きあらわれ

気がつくと
もうクイーンズボロ橋を渡りきって
私たちはまだ
無人の喉への
挨拶の言葉をもたない

Manhattan is
unbinding and emerging (unbinding and emerging

suddenly
having crossed the Queensboro Bridge
we pull up short
of a greeting
to those throated hollows