廃墟について

前回は廃墟のような街をゆく夢の記述で終わりましたが、じつは東日本大震災以降、ずっと廃墟について考えつづけているような気がしています。震災直後のポエジー夜話特別篇でも、そのものずばり、廃墟をテーマにした詩を書きました。以下はその散文バージョンという感じですけど──
以前は廃墟をわりと趣味的に捉えているところがありました。たとえば長崎沖に軍艦島というのがあります。かつては炭坑があり、コンクリート造りのアパート群には何百という人が住んでいましたが、時代とともにさびれ、廃坑となり、無人島となりました。ところが、海上から眺めると、そのアパート群などが島全体を軍艦のようにみせる奇観をつくりだしていることから、近年、廃墟ツアーとして人気を博しているようです。私も、まだ行ったことはありませんけど、この島にいたく惹かれました。そのことが象徴するように、廃墟はどこかここ以外の場所にあって、そこを私たちは訪れ、しばし、人がいた痕跡を経めぐりながら、いにしえの華やぎをなつかしむ──というふうに、いわばロマン主義的な気分で廃墟を捉えていたわけですね。そして、それで事足りてもいたのです。
ところが、このたびの震災以降、私にとって廃墟は、もっと内的な、深められた、恐ろしいものになりつつあるようです。まず、廃墟とは、私たちが訪れるものではなくて、私たちへと訪れるものなのだということ。この主格の交換は大きいですね。しかも、くり返し廃墟は訪れるのです。言い換えれば、くり返しいまここの場所となるのです。そうしてそのたびに、私たちの悲しみ、私たちの怒り、私たちの恐れ、私たちのおののき、私たちの祈り、そうしたものが更新されることになります。私たちが廃墟に立つという意味はそういうことでしょう。無音の叫びをきき、光年の雫を浴びながら。記憶の森がざわめくなかを、年代記の谷がひろがるうえを。そうしてその谷からたとえば、一九二三年、一九四五年、一九九五年、二〇一一年という年号が浮かび上がるのを、私たちはみるのでしょう。くり返し、廃墟は訪れます。なぜかはわかりません。おそらく、そのなぜ、という問いを越えて、くり返し、くり返し、私たちのなかにまで、最奥部にまで、瓦礫は及び、人の生の痕跡は及んできます。それが地上の掟でもあるかのように。こうして廃墟は私たちをつらぬき、やがて私たちを置き去りにしてゆくことでしょう。なぜなら、廃墟は未来のどこかでまた私たちを訪れるべく、待っていなければならないのですから。ただ、廃墟につらぬかれて私たちは、さすがにつらぬかれたままにはならない。いまここを生きるほの暗い発光体となります。あるいは、私たちからうっすらと光が発したのをみて、廃墟が私たちをつらぬいていったことがわかる、ということなのかもしれません。