瞬間の雪

雪について書きましょう。できれば雪と詩との関係について。今年は記録的な寒冬で、雪国の生活はさぞかし大変であろうと思われます。しかし、関東平野に生まれ育った私にとっては、雪はある種の僥倖をもたらす徴でもあるかのようで、大げさにいえば降雪を機に世界がなにかしら一新されるかもしれないというような、しかし多くの場合、それははかないものなので、降雪のあいだはこのうえもなく貴重な、かけがえのない瞬間の連続のように思われ、「時間よとまれ」と思わず念じたくなるような、そんな気持ちで私は胸がいっぱいになってしまうのです。
いや、まさに瞬間そのものともいうべき雪もありました。あれは5、6年前の4月初旬の、午後遅くだったでしょうか、私は書斎で執筆していましたが、書きあぐねて、ふと窓外をみると、雪が、みぞれに近いぼたん雪が、降っているではありませんか。その年は今年とちがって記録的な暖冬でして、桜も異常に早く開花してしまい、数日前から花吹雪がみられたので、その花吹雪かと思いましたが、メタファーではありません、ほんものの雪が降っているのです。いやあ、びっくりしました。
雪はすぐに雨に変わり、やがてその雨もやんでしまいましたが、あとで階下に降りてテレビをつけたら、4月に入ってからの雪は、東京では19年ぶりのことだといいます。そういえば、その年は何かと気象をめぐる話題が多かったと記憶しています。とりわけ地球温暖化は、テレビのワイドショーで芸能界のゴシップと登場回数を競うまでになってしまったぐらいで、まあ、嘆くべきことなんでしょうけど。
ところで、私がそのとき雪にびっくりしたのは、その季節外れぶりからだけではありませんでした。おりしも私は、宮沢賢治のあの、「永訣の朝」について書いていて、その詩のなかの雪が窓外にも降り及んだ、かのようなのだったんですね。まるで絵のなかの人物が、いきなり動き出して絵の外に出てきた、みたいに。
「永訣の朝」において、紹介するまでもないとは思いますが、詩人は死にゆく妹を看取ろうとしています。外は「くらいみぞれ」模様で、「あめゆじゆとてちてけんじや」(あめゆきとってきてください)、という妹の言葉に、詩人は、「まがつたてつぽうだまのやうに」その外に飛び出してゆくわけです。するとどうでしょう、くらい外は瞬時のうちに光明にあふれ、そこから、「さっぱりした雪のひとわん」がもたらされる、その奇跡のような変容を、私ごときが、どのようなメタレベルの言葉で語ることができるだろう、と思い、つまりは書きあぐねて、眼を上げたそのとき、私の生きているこの世界にも、まぎれもなく、雪の瞬間が、あるいは瞬間の雪が、もたらされていたのでした。