「詩と哲学のあいだ」プログラム(1)

もう2年前のことになりますが、私と吉田文憲さんとの共同主宰で、「詩と哲学のあいだ」研究会というのを発足させました。以来、2ヶ月に一度のペースで会をひらき、現在にいたっています。場所は拙宅。集まる面々は若手を中心にした詩人、研究者、編集者など。毎回順繰りにひとりずつ発表し、そのあと自由討議をして、さらにそのあと、近くの下北沢に繰り出して打ち上げ、というのがいつものコースですけど。
「詩と哲学のあいだ」というとなんだか七面倒くさそうですが、そのうえ、詩も哲学も近代の教養主義的な知を背景にしたところがありますから、大衆社会状況のいまはそれこそ絶滅危惧種みたいなもので、なんだかなあという感じですけど、そこはかぎりなく拡大解釈して、まあ要するに各人が自由にそれぞれの思想的テーマで発表するわけです。これまでにたとえば、「折口信夫死者の書』をめぐって」「ニーチェを読む朔太郎」「詩は定言命法たりうるか」「詩が書かれる状態のベルクソン的表現」「永劫回帰・夢・笑い」「ボードレールから西脇順三郎へ」「デリダ『死を与える』を読む」などが発表され、討議されました。
「詩と哲学のあいだ」というのは、同時にしかし、私自身が長年あたためてきた問題設定でもあるんですね。批評の分野でのライフワークといってもいいかもしれません。以下にそのプログラムというか、いやまだ夢のようなものにすぎませんけど、それを語ってみようかと思います。
日本語において詩作は思索と同音であるという駄洒落は置くとしても、詩と哲学は相性がいいようです。ヘラクレイトスの断片なんか、ほとんど詩のようですし、ニーチェはじっさいに詩も書きましたけど、思索に詩作をもっとも引き寄せたのは、やはりなんといってもハイデガーでしょう。このあいだ、私はついに還暦になってしまったのですが、それを記念して、なにかふだんはできないことをやろうと思い立ち、若い頃何度か挑戦してそのつど挫折していた『存在と時間』(細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫)をついに読破してしまいました。誕生日を挟んで前後2ヶ月かかりましたけど。ところが、『存在と時間』に詩のことはあまり出てきません。ハイデガーが詩のことを語るようになるのは後期になってからで、よく知られているように、ヘルダーリンリルケを論じるようになります。ランボーについてさえ言及しているほどで、しかしとりわけヘルダーリンでしょうね。これはぼくも以前読みました。もう一度読み直してみようと思っています。
ハイデガーとは対極にあるような哲学者ヴィトゲンシュタインも、詩と哲学がとても親和的な関係にあることを、皮肉たっぷりに述べています。いわく、「そもそも哲学は、詩のようにつくることしかできない」。だとすれば、詩は、哲学するようにつくることもできるともいえるわけで──。