「詩と哲学のあいだ」プログラム(3)

こうして、ハイデガー、シャール、ツェランという三角形が出来上がります。それは、詩と哲学をめぐるもっとも劇的で興味深い、そしてまたもっとも謎を孕んだ三角形といえるでしょう。なにしろ、20世紀西欧最大とされる哲学者と、フランス現代詩の最高峰と、20世紀後半のドイツ語圏最高の詩人と、その3人がクロスしているのですから。
日本に目を転じて、「詩と哲学のあいだ」をもっともよく体現したのは、ありきたりですが、やはり萩原朔太郎ということになるでしょうか。私は昨年秋、『萩原朔太郎』という本を書きました。それでいささか朔太郎について知ることができたのですが、彼はいろんな学校に入学しては退学を繰り返すというていたらくであったにもかかわらず、じつによく哲学を勉強していたふしがうかがえるんですね。ショーペンハウエルニーチェはもとより、ベルクソンにまで言及しています。そうした読書は朔太郎の詩作にどのように反映しているのでしょうか。
ここで朔太郎自身に語らせましょう。「僕はショーペンハウエルから多く学んだ。僕の第2詩集『青猫』は、その惑溺の最中に書いた抒情詩の集編であり、したがってあのショーペンハウエル化した小乗仏教の臭気や、性欲の悩みを訴へる厭世哲学のエロチシズムやが、集中の詩篇に芬々として居るほどである。しかし僕は、それよりも尚多くのものをニイチェから学んだ。ニイチェは正しく僕の「先生」である」(『廊下と室房』)
ショーペンハウエルについてはこちらが未読であり、なんともいえませんが、たぶん朔太郎の言う通りなのでしょう。問題はニーチェです。そう、ニーチェを読む朔太郎。さっき「詩と哲学のあいだ」研究会のテーマとしてあげたそれは、じつは私の発表になるものでした。それはともかく、『月に吠える』『青猫』にとくにこの哲学者の著作の影響はみられないようです。となると、あとは『氷島』ということになりましょうか。
なるほど『氷島』には、生田長江ニーチェを下敷きにしたと思われる箇所があり、朔太郎は十分ニーチェを意識していたでしょう。でもそのことと、彼がはたしてどの程度ニーチェを理解していたかは別問題です。そして、残念ながら、私の見るかぎりニーチェの思想はあまり消化吸収されていません。たとえば「意志」という言葉が何度か出てきますけど、それはニーチェのいわゆる「力への意志」というより、むしろやはりショーペンハウアーの『意志と表象の世界』のほうの「意志」なのでしょう。